Category:漢文 > 老子

重いものは軽いものの根本であり、静寂さは騒がしさの主君である。こういうわけで聖人は、軍隊が一日中行軍しても輜重隊から離れないように、重々しさと静寂さを失わない。美しい眺めがあってもそれに心を寄せることも無く、いつもくつろいで超然としている。どうして万乗の天子が自分の身を天下より軽々しく扱ってよいことがあろうか。軽々しく扱えば、臣下を失うことになり、騒がしく振舞えば、君主であることを失ってしまうのである。


Keep heavy and silent attitude.

Heavy weight is base of right weight, silence is lord of roudness. Therefore the saint never loose heavy and silent attitude like troops never apart from logistic military throgh a day long marching.  Don't take care of beautiful senary , always take relax. Why thousand of armed king place careless under the hole country. If doing so he will loose his subjects and if behave very roud he will loose his lord.
 

この章は、一国を主宰すべき立場の君主の心構えについて論じたもの。君主たる者、軽々しく振舞ったり、騒がしく振舞ったりせずに、常に重々しく、心静かに振舞うべきだと述べている。「重徳」というタイトルも、「常に重々しさ(と心静かさ)を保つ得」(三字になるので静の字を省略した)の意であり、この意にふさわしい。

「重は軽の根たり。静は躁の君たり」。「躁」は騒がしく落ち着きのないもののこと。重いものは、ちょうど木の根が枝葉に対するように、軽いものの根本である。静かなことは騒がしいことの主君なのである。つまり、重いもの、静かなことが無為自然の道にかなった大本であって、軽いもの、騒がしいことはそこから発生した二次的なものである、ということ。「韓非子」喩老編には「制の己に在るを重と曰い、位を離れざるを静と曰う。重なれば則ち能く軽を使い、静なれば則ち能く躁を使う」(主導権が自分にあることを重と呼び、その地位からつかの間も離れない事を静と呼ぶ。重であれば軽を使いこなすことができ、静であれば躁を使いこなすことができる)とある。

「是を以て聖人は、終日行けども、輜重を離れず」。「輜重」は軍隊で糧食や武器など補給の為の重い荷物を運ぶ荷車のこと。上の「重」について述べたもの。こういうわけで、道を体得した聖人は、軍隊が一日行軍を続けても、決して生命線ともいうべき補給物資を積んだ荷車から離れないように、この重々しい態度から離れることはない、ということ。

「栄観有りと雖も、燕処超然たり」の「燕」はくつろぐこと。「処」は「居」と同じ。「超然」は世俗的なものにとらわれないさま。聖人は、どんなに美しい眺めがあったとしても、心静かにしており、そのようなものとは無縁でいる、ということ。

「奈何ぞ万葉の主にして、身を以て天下より軽しとするや」。「奈何ぞ」は「どうして」という疑問詞。「万乗の主」とは戦車一万台を所有できる国のことで、大国の君主のこと(本来は戦車一万台を所有するのが天子であり、千台を所有するのが諸侯であったが、戦国時代には有力な諸侯も万乗の主と呼んだ)。どうして天子たるものが、自分の身を天下より軽いものとして扱ってよいだろうか、の意。つまり十三章にも「貴ぶに身を以てして天下を為むる者には、則ち天下を寄すべし」とあったように、自分の身を大切にできる人物にして初めて天下を統治することができる、ということ。

「軽ければ則ち臣を失い、躁しければ則ち君たるを失う」。自分の身を大切な貴いものとすることことができず、軽々しく扱うような君主では、世の中をうまく統治することができず、臣下は愛想を尽かして去ってしまい、騒がしく落ち着きなく振舞えば、君主たる資格を失ってしまうのである。すなわち、君主たる者は重々しく、心静かに振舞わなければならない、ということ。

なお、この章は先に挙げた「韓非子」の喩老編の文章と比較して、「重は軽の根たり。静は躁の君たり」。「軽ければ則ち臣を失い、躁しければ則ち君たるを失う」の四句のみが本来の「老子」の本分であり、他の部分は桁文と見る説もある。

 
明治書院 老子より






このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

ある物があって、混沌として入り混じって、天地より以前に生じていた。それは声もなく形もなく、ただそれだけで独立し、変化することがなく、あまねく行きわたっていて怠ることがなく、それゆえ天下の母と言うことができる。私はその名前を知らない。そこでこれを道と呼び、強いてこれに名付けて大と言うのである。この道はおおきいのでどんどん広がっていき、広がっていけば遠ざかり、遠ざかればまた戻ってくる。だから道は大なのであり、天も地も王もまた大なのである。世界には四つの大がある。そして王もその一つに位置を占めている。人間は地の法則に従い、地は天の法則に従い、天は道の法則に従い、道は自然の法則に従っているのである。

Live belong Tao the theory of universe.

There was some articles in the chaos before heaven and earth was born. That was no voice and figure, independent article , nochange and all over the world. Therefore it can called mother of the world. I don't know the name. So I name it Tao and force name enormous. Tao expands more and more because it is enormous, if expanded it went far away but if it went far away it backed to again . Tao is enormous, heaven and earth are also enormous. There are four enormous article. The King is one of four enormous. Human belongs earth theory , earth belongs  heaven theory , heaven belongs Tao theory , Tao belongs universe theory.

 

この章は、老子の説く「道」について、原理的に説明したものである。道は天地に先だって生じ、天地を含めた万物を生み出した偉大な母であり、万物の一員である人間も、この究極的な道に従って生きていくべきだと述べている。「象元」というタイトルも、「万物の根源足る道に象って(かたどって=のっとって)生きるべきだ」という意で、内容に合致している。

「物有り混成し、天地に先だって生ず」。「物」とは「ある物」の意であるが、結論的には道を指す。第二十一章に「道の物たる。・・・其の中物有り」とある。「混成」は混沌として入り混じること。これも第十四章に「故より混じて、一と為る」とあるのと同義。混沌として形をとらず、どろどろと入り混じったある物があり、天地が生ずる以前に生じていた、ということ。万物が未分化のカオスの状態、すなわち道について述べている。

「寂たり寥たり、独立して改まらず、周行して殆らず、以て天下の母と為すべし」。「寂たり寥たり」は、音もなく姿もないさま。「周行」は、あまねく行きわたること。「殆」は怠ること。一説に「疲れる」の意とする。「天下の母」とは、万物を生み出す偉大なる母性ということ。その根源的な存在は、無言・無形であって、何物にも依存すること無く変化することも無く、あらゆる所に現れていながら怠ることがなく、それはまさに偉大なる天下の母性ということができる、の意。

「吾、その名を知らず。之に字して道と曰い、強いて之が名を為して大と曰う」。「字」は成人した時につける通称名のこと。前述したように、ある物に名前を与えた途端、その物の実体とは異なるものとなってしまう。従って、万物の根源である道も、本来は名称を与えることができない。だから、「私はその名前を知らない」と言うのである。名前は知らないが、それでは不便なので、「道」という通称名で呼ぶことにし、また、強いて名前を付けて「大」と呼ぶことにした。「大」は道が広大無辺で偉大な働きをするために、こう名付ける、ということ。

「大なれば曰ち逝き、逝けば曰ち遠ざかり、遠ざかれば曰ち反る」。「曰」は「則」と同じ。「逝」は「往」と同じ。道は広大無辺の働きをするので、万物をどんどんと広がり続けさせ、どんどん広がり続けさせるので、はるか遠方、究極のかなたまで行かせ、究極のかなたまで行き着かせれば、再び元の所に戻ってこさせる、ということ。老子は、道を、万物を載せ偉大な循環運動を続けさせるものと考えていたと思われ、ここも、究極まで到達すれば、循環して元の場所に戻ってくるという考え方。福永光司「老子」に、「老子において『往く』ことが『返る』ことでありうるのは、道が万物の根源であり、根源でありながら万象に顕れて広大無辺、すなわち『遠く行く』からであった。つまり、『逝けば曰に遠く、遠ければ曰に反る』というのは、道が万象に己をあらわして、やがてまた己に帰ってゆく無限循環を、逝→遠→反の運動として論理化したものであり、『逝』『反』の無限循環の媒介項をなすものは『遠』すなわち万象の存在であった」とある。

「故に道は大なり。天は大なり。地は大なり。王も亦大なり」。だから、道は大なのであるが、その広大無辺の道から生み出された天地も大であり、さらに天地の生み出した主も大なのである、ということ。

「域中四大有り。而して王も其の一に居る」。「域中」はこの世、世界。この世には「道・天・地・王」という四つの大がある。そして道・天・地という人間存在を超越したものはともかく、人間存在である王もその一角を占めているのだ、ということ。

「人は地に法り、地は天に法り、天は道に法り、道は自然に法る」。人間(王)は、大地で暮らしているので、地の法則に規定され、地は天の法則に規定され、その天も、天地万物を生成した道の法則に規定され、根源たる道は、道自身の自然の法則に規定されるのだ、ということ。

 
明治書院 老子より

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

偉大なる徳の姿はただ道に従っている。道とはただぼんやりとしていて定めがたい。しかしそのぼんやりとして定め難い中に、何かがあることが分かる。奥深く暗く微かな中に、ある精気が漂っている。その精気は甚だ真実であり、その中に偽りのないものがある。太古から現在に至るまで、道というものは消え去ったことがない。そして万物を主宰している。私はどうして万物が道に主宰されていることを知ったかといえば、このことによってである。


Be gentle to capture dazed Taoism.

The figure of virtue follows Taoism. Taoism is dazed and difficult to define. But I see something in the dazed and nodefined figure. In the deep,dark and faint some energy floats. that is real and no doubt in. Taoism is not disappearing from acient to present. And it preside over everything. The reason why I know everything is presided by Taoism is that truth.
   

この章は第一章、第四章、第十四章などと同様に、無為自然の大道について説明を加えたものである。道というものは目で見てはっきり確認することのできない、とらえ難い存在ではあるが、確実に存在し、万物を主宰しているのだと述べている。「虚心」というタイトルは、捉え難い道を確認するためには「心を優しく」しなければならにということで付けられたようである、「孔徳の容は、唯道に是れ従う。」「孔徳」は大いなる徳の意。「容」は容姿のこと。大いなる徳を備えた人物の容姿は、無為自然の道に従っている。つまり、無為自然の道にそっくりである、ということ。

「道の物たる、唯悦唯忽」。「道の物たる」は「道というものは」の意。「悦」は「恍」と同じで、ぼんやりとして見定め難いさま。「忽」は「惚」と同じで、これもぼんやりして見定め難いさま。「悦・忽」を「恍・惚」とする本もある。意味は同じ。

「惚たり悦たり、其の中物有り」。ここの「物」は具体的な何かの物の意。道はひたすらぼんやりしていて、見定め難いものではあるが、何かは指摘できなくとも、そこに何かが存在していることはわかる、ということ。

「窈たり冥たり、其の中精有り」。「窈」は深遠なさま、「冥」は暗いさま。「精」は精気のこと。万物を生み出す大本と為る気のこと。道は深遠で薄暗く、つかみにくいものであるが、其の中には万物を生み出す大本になる気が存在するのだ、ということ。

「其の精甚だ真にして、其の中に有り」。「真」とは、純粋無難な真実のこと。「信」は偽りのないこと。万物を生み出す精気は、純粋無難な真実在なので、太古以来、現在に至るまで、道という名は保持され続けて消え去ったことがない、ということ。

「以て衆甫を閲ぶ」。「衆甫」は「衆父」と同じで、たくさんある諸族の族長を父性のイメージとしてとらえたもの。「閲」は「統」と同じで、主宰するの意。偉大な母性である道は、それぞれの万物を生み出す族長(たとえば天地)であるようなもろもろの父性を、さらに統括する根源的な宗家たる存在である、ということ。

「吾何を以て衆甫の然るを知るや。此れを以てなり」。「然る」とは、たとえば天地の様な万物を生み出す族長が、道に主宰されていること。どうしてそれを知り得るかというと、その根源である道を知ることによってである、ということ。

 

明治書院 老子より

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

無心の境地を極め、心の平静さを保ち切れば、万物が一斉に生じても、私には万物が循環してその根源に立ち返るのを見ることができる。そもそも万物は盛んに生々繁茂するが、必ずその根源に復帰する。根源に立ち返る状態を「静」といい、これを「命に復る」という。「命に復る」ことを恒常不変の真理と言い、恒常不変の真理を知ることを「明」という。恒常不変の真理を知らず妄りに行動すれば、それは不吉である。恒常不変の真理を知れば全てを受け入れることができ、全てを受け入れることができれば、すべてに公平になりすべてに公平になれば、王者の徳を持つことができ、王者の徳を持つことができれば、天と一体になることができ、天と一体になることができれば、道に合致することができ、道に合致することができれば、長久の寿命を得ることができ、一生涯無事でいることができる。

Back to Taoism origin of everything.

If you attain a state of perfect self-effacement and keeping safe of mind, I can see full circulation of all back to the origin of itself if everything happens at once. In the first place everything grow flourishing, but it certainly back to it's origin. To back to origin called truth of constant fair. If you know truth of constant fair , you can accept everything. If you can accept everything, you will be fair to everything. And if you are fair to evrything , you will have the virtue of the King. If you have the virtue of the King, you can combine with universe. If you can combine with universe, you can fit to Taoism. If you can fit to Taoism, you will get forever life and will be safe life long. 

 

この章も無為自然の大道を体得した者について述べる。万物は全てその根源である道に立ち返る。これが道の恒常不変の真理なのである。この恒常不変の真理を体得した人物は道に合致することができると説く。タイトルの「帰根」とは、万物の根源である道に復帰するという意。

「虚を致すこと極まり、静を守ること篤ければ、万物並び作こるも、吾以て其の復るを観る」。「虚」は虚心であること。「静」は静心であること。「虚・静」は無為自然の道を認識するのに最適な方法。虚心に心静かにしていれば、万物が生じては、再びその根源である道に帰るという循環を見ることができる、ということ。

「夫れ物芸芸たるも、各々其の根に復帰す」。「芸芸」は草木の繁茂するさま。万物は必ずその根源たる道に復帰するものだ、ということ。

「根に帰るを静と曰い、是を命に復ると謂う」。「命」は福永光一「老子」に、「命は天が万物に命じた在り方。これを万物の側からいえば、己に与えられた本来的な在り方をいい、運命、天命、生命、性命などの意味をも含み得る」とあるように、様々な意味合いを含んだ語。根源である道の静寂さに帰る状態を「静」といい、天が与えた在り方に帰るというのだ、ということ。

「命に復るを常と曰い、常を知るを明と曰う」。「常」は恒常不変であること。「明」は聡明であること。天が与えたあり方に帰ることを、恒常不変といい、恒常不変を理解することを聡明というのだ、ということ。

「常を知らずして妄に作せば凶なり」。恒常不変の真理を理解せずに、めったやたらに何かを行ったならば、それは不吉な結果を招くことになる、ということ。

「常を知れば容、容なれば乃ち公、公なれば乃ち王、王なれば乃ち天、天なれば乃ち道、道なれば乃ち久しく、身を没するまで殆うからず」。「容」は寛容であること。「公」は公平であること。「王」は王者の徳を有すること。「天」は天理にかなうこと。「道」は道に合致すること。恒常不変の真理を理解できる→寛容にすべてを受け入れられる→公平無私の立場に立てる→王者の徳を身につけられる→天理に適うことができる→道に合致することができる→長久の寿命を得ることができ、生涯無事で危険はない、という論理。

 

明治書院 老子より

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

昔の道を体得した人物は、微妙な奥義に通じており、心もはかり知れない奥深さを持っていた。ただただはかりしれないが、強いてそれを形容するなら、慎重であることまるで冬に川を渡るようであり、用心深いことまるで近所の人たちに気を遣うようであり、重々しい態度をとることまるで招かれた客人のようであり、物事にこだわらないことまるで水が融けるようであり、飾り気のないことまるであら木のようであり、心が空虚であることまるで谷のようであり、多くのものを受け入れることまるで濁った水のようである。いったい他の誰が濁っているものをそのままにし静かに徐々に潜むのを待っていられようか。またいったい他のだれが安定しているものを長いことかけて動かして、新しいものを生み出せようか。この道を保ってゆく者は、満ちることを望まない。ただただ満ちることを望まないから、いったん破れたとしても再び新しくなることができるのである。

Open the taoism humanity virtue.

Acient taoism master had sensitive deep justice through humanity and also had unscalable deepness in his mind. No ward else simply express unscalable, but explain it by force. Very purudencial as if cross the river in cold winter. Taking care much as if to neighborhod, Profound attitude as if invited guest. Not be particular as if melting ice. Unaffected as if just cutted off the tree. Empty mind as if the valley. Accept much as if mud water. Who can endure to wait until mud water goes to clear until precipitation ? And who can create newly which stabilized throgh long time move ? The man who keeps these taoism way nevet wish fullfill. Simply never wish fulfill , if it breakes onece but can rebuild newly.

 

前章では、道の捕らえ難いことについて述べてあったが、本章は、その道を体得した人物も捉え難いものだということを述べている。「顕徳」というタイトルは、その道を体得した人物の徳を明らかにする、という意のようである。

「古の善く士たる者は、微妙玄通、深くして識るべからず」。「士」は「道」に作る本もある。その場合は「古の道を善くする者は」となり、意味は通じやすい。ともかく、「士」は道を体得した人物の意。「微妙」は深遠で知り難いさま。「玄通」は奥深く通じていること。その人物は知り難い深奥な道に奥深く通じているので、彼自身も奥深くて理解することができない、の意。

「夫れ唯識るべからざる。故に強いて之が容を為せば」、彼はただただ捉え難い存在である。そうであるので形容することなどできるはずもないが、強引に形容すれば、の意。以下、道を体得した人物を形容している。

「与として冬川を渉るが若く」、「与」は「予」に作る本もあるが、いずれでも意味は通じて、ためらうの意。その人物は、冬に川を渡る者のように何事にもためらい慎重である、ということ。

「猶として四隣を畏るるが若く」、「猶予」と言う語があるように「猶」もためらうの意。「四隣」は四方の隣国・隣人。隣近所に気を遣うように、何事にもためらい用心深いということ。「儼として其れ客たるが若く」、「儼」は威厳のあるさま。他家に招かれた客人のように、何事にも威厳をもって臨むということ。「渙として氷の将に釈けんとするが若く」、「渙」はわだかまりのないさま。何事にも氷が融けるようにさらっとしていて、わだかまりがない、ということ。「敦として其れ朴の若く」、「敦」は篤実で飾り気のないこと。「朴」は山から伐り出したばかりのあら木のこと。何事にもあら木のように、きまじめで飾り気がないということ。「曠としてそれ谷の若く」、「曠」は広々として虚しいさま。何事をも谷のように虚しく受け入れるということ。「渾として其れ濁れるが若し」。「渾」は多くのものが入り混じったさま。濁った川の水のように、多くのものが入り混じったように受け入れるということ。

「孰か能く濁るも以て之を静かにして徐に清まさん」。いったい、この無為自然の道の体得者以外の誰が、濁ったものをそのまま受け入れ、静かにしておいてだんだんと澄んでいかせることができようか。つまり、多くのものが入り混じった状態を受け入れるということは、濁りを許容することに他ならないが、多くのものを受け入れ濁らせながらも、徐々に浄化して澄ましてしまうことができる人物、それが道を体得した人物だということ。

「孰か能く安んじて以て久しく之を動かして徐に生ぜん。同様に、道を体得した者のみが安定して永続性を持つ動かし難いものを、徐々に動かして新しいものに変えていくことができるのだ、ということ。

「此の道を保つ者は、盈つるを欲せず」。第四章に「道は冲にして之を用うるも、或しく盈たず」とあったように、無為自然の道は満ちることがない。従って、道を体得した人物は満ちるということを望まない、ということ。

「夫れ唯盈たず。故に能く藪るるも復成すなり」。「藪」は衣服が破れること。ここでは、単に破れること。満ちることがないということは余力があるということ。余力があるからこそ、たとえほころび破れたとしても、再び新しく作りだすことができるのだ、ということ。

明治書院 老子より

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ