2015年11月

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

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ある物があって、混沌として入り混じって、天地より以前に生じていた。それは声もなく形もなく、ただそれだけで独立し、変化することがなく、あまねく行きわたっていて怠ることがなく、それゆえ天下の母と言うことができる。私はその名前を知らない。そこでこれを道と呼び、強いてこれに名付けて大と言うのである。この道はおおきいのでどんどん広がっていき、広がっていけば遠ざかり、遠ざかればまた戻ってくる。だから道は大なのであり、天も地も王もまた大なのである。世界には四つの大がある。そして王もその一つに位置を占めている。人間は地の法則に従い、地は天の法則に従い、天は道の法則に従い、道は自然の法則に従っているのである。

Live belong Tao the theory of universe.

There was some articles in the chaos before heaven and earth was born. That was no voice and figure, independent article , nochange and all over the world. Therefore it can called mother of the world. I don't know the name. So I name it Tao and force name enormous. Tao expands more and more because it is enormous, if expanded it went far away but if it went far away it backed to again . Tao is enormous, heaven and earth are also enormous. There are four enormous article. The King is one of four enormous. Human belongs earth theory , earth belongs  heaven theory , heaven belongs Tao theory , Tao belongs universe theory.

 

この章は、老子の説く「道」について、原理的に説明したものである。道は天地に先だって生じ、天地を含めた万物を生み出した偉大な母であり、万物の一員である人間も、この究極的な道に従って生きていくべきだと述べている。「象元」というタイトルも、「万物の根源足る道に象って(かたどって=のっとって)生きるべきだ」という意で、内容に合致している。

「物有り混成し、天地に先だって生ず」。「物」とは「ある物」の意であるが、結論的には道を指す。第二十一章に「道の物たる。・・・其の中物有り」とある。「混成」は混沌として入り混じること。これも第十四章に「故より混じて、一と為る」とあるのと同義。混沌として形をとらず、どろどろと入り混じったある物があり、天地が生ずる以前に生じていた、ということ。万物が未分化のカオスの状態、すなわち道について述べている。

「寂たり寥たり、独立して改まらず、周行して殆らず、以て天下の母と為すべし」。「寂たり寥たり」は、音もなく姿もないさま。「周行」は、あまねく行きわたること。「殆」は怠ること。一説に「疲れる」の意とする。「天下の母」とは、万物を生み出す偉大なる母性ということ。その根源的な存在は、無言・無形であって、何物にも依存すること無く変化することも無く、あらゆる所に現れていながら怠ることがなく、それはまさに偉大なる天下の母性ということができる、の意。

「吾、その名を知らず。之に字して道と曰い、強いて之が名を為して大と曰う」。「字」は成人した時につける通称名のこと。前述したように、ある物に名前を与えた途端、その物の実体とは異なるものとなってしまう。従って、万物の根源である道も、本来は名称を与えることができない。だから、「私はその名前を知らない」と言うのである。名前は知らないが、それでは不便なので、「道」という通称名で呼ぶことにし、また、強いて名前を付けて「大」と呼ぶことにした。「大」は道が広大無辺で偉大な働きをするために、こう名付ける、ということ。

「大なれば曰ち逝き、逝けば曰ち遠ざかり、遠ざかれば曰ち反る」。「曰」は「則」と同じ。「逝」は「往」と同じ。道は広大無辺の働きをするので、万物をどんどんと広がり続けさせ、どんどん広がり続けさせるので、はるか遠方、究極のかなたまで行かせ、究極のかなたまで行き着かせれば、再び元の所に戻ってこさせる、ということ。老子は、道を、万物を載せ偉大な循環運動を続けさせるものと考えていたと思われ、ここも、究極まで到達すれば、循環して元の場所に戻ってくるという考え方。福永光司「老子」に、「老子において『往く』ことが『返る』ことでありうるのは、道が万物の根源であり、根源でありながら万象に顕れて広大無辺、すなわち『遠く行く』からであった。つまり、『逝けば曰に遠く、遠ければ曰に反る』というのは、道が万象に己をあらわして、やがてまた己に帰ってゆく無限循環を、逝→遠→反の運動として論理化したものであり、『逝』『反』の無限循環の媒介項をなすものは『遠』すなわち万象の存在であった」とある。

「故に道は大なり。天は大なり。地は大なり。王も亦大なり」。だから、道は大なのであるが、その広大無辺の道から生み出された天地も大であり、さらに天地の生み出した主も大なのである、ということ。

「域中四大有り。而して王も其の一に居る」。「域中」はこの世、世界。この世には「道・天・地・王」という四つの大がある。そして道・天・地という人間存在を超越したものはともかく、人間存在である王もその一角を占めているのだ、ということ。

「人は地に法り、地は天に法り、天は道に法り、道は自然に法る」。人間(王)は、大地で暮らしているので、地の法則に規定され、地は天の法則に規定され、その天も、天地万物を生成した道の法則に規定され、根源たる道は、道自身の自然の法則に規定されるのだ、ということ。

 
明治書院 老子より

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偉大なる徳の姿はただ道に従っている。道とはただぼんやりとしていて定めがたい。しかしそのぼんやりとして定め難い中に、何かがあることが分かる。奥深く暗く微かな中に、ある精気が漂っている。その精気は甚だ真実であり、その中に偽りのないものがある。太古から現在に至るまで、道というものは消え去ったことがない。そして万物を主宰している。私はどうして万物が道に主宰されていることを知ったかといえば、このことによってである。


Be gentle to capture dazed Taoism.

The figure of virtue follows Taoism. Taoism is dazed and difficult to define. But I see something in the dazed and nodefined figure. In the deep,dark and faint some energy floats. that is real and no doubt in. Taoism is not disappearing from acient to present. And it preside over everything. The reason why I know everything is presided by Taoism is that truth.
   

この章は第一章、第四章、第十四章などと同様に、無為自然の大道について説明を加えたものである。道というものは目で見てはっきり確認することのできない、とらえ難い存在ではあるが、確実に存在し、万物を主宰しているのだと述べている。「虚心」というタイトルは、捉え難い道を確認するためには「心を優しく」しなければならにということで付けられたようである、「孔徳の容は、唯道に是れ従う。」「孔徳」は大いなる徳の意。「容」は容姿のこと。大いなる徳を備えた人物の容姿は、無為自然の道に従っている。つまり、無為自然の道にそっくりである、ということ。

「道の物たる、唯悦唯忽」。「道の物たる」は「道というものは」の意。「悦」は「恍」と同じで、ぼんやりとして見定め難いさま。「忽」は「惚」と同じで、これもぼんやりして見定め難いさま。「悦・忽」を「恍・惚」とする本もある。意味は同じ。

「惚たり悦たり、其の中物有り」。ここの「物」は具体的な何かの物の意。道はひたすらぼんやりしていて、見定め難いものではあるが、何かは指摘できなくとも、そこに何かが存在していることはわかる、ということ。

「窈たり冥たり、其の中精有り」。「窈」は深遠なさま、「冥」は暗いさま。「精」は精気のこと。万物を生み出す大本と為る気のこと。道は深遠で薄暗く、つかみにくいものであるが、其の中には万物を生み出す大本になる気が存在するのだ、ということ。

「其の精甚だ真にして、其の中に有り」。「真」とは、純粋無難な真実のこと。「信」は偽りのないこと。万物を生み出す精気は、純粋無難な真実在なので、太古以来、現在に至るまで、道という名は保持され続けて消え去ったことがない、ということ。

「以て衆甫を閲ぶ」。「衆甫」は「衆父」と同じで、たくさんある諸族の族長を父性のイメージとしてとらえたもの。「閲」は「統」と同じで、主宰するの意。偉大な母性である道は、それぞれの万物を生み出す族長(たとえば天地)であるようなもろもろの父性を、さらに統括する根源的な宗家たる存在である、ということ。

「吾何を以て衆甫の然るを知るや。此れを以てなり」。「然る」とは、たとえば天地の様な万物を生み出す族長が、道に主宰されていること。どうしてそれを知り得るかというと、その根源である道を知ることによってである、ということ。

 

明治書院 老子より

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