2015年10月

古の盟王は、必ず君臣の礼を謹み

武候が質問して言った
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帰根第十六 老子

無心の境地を極め、心の平静さを保ち切れば、万物が一斉に生じても、私には万物が循環してその根源に立ち返るのを見ることができる。そもそも万物は盛んに生々繁茂するが、必ずその根源に復帰する。根源に立ち返る状態を「静」といい、これを「命に復る」という。「命に復る」ことを恒常不変の真理と言い、恒常不変の真理を知ることを「明」という。恒常不変の真理を知らず妄りに行動すれば、それは不吉である。恒常不変の真理を知れば全てを受け入れることができ、全てを受け入れることができれば、すべてに公平になりすべてに公平になれば、王者の徳を持つことができ、王者の徳を持つことができれば、天と一体になることができ、天と一体になることができれば、道に合致することができ、道に合致することができれば、長久の寿命を得ることができ、一生涯無事でいることができる。

 

この章も無為自然の大道を体得した者について述べる。万物は全てその根源である道に立ち返る。これが道の恒常不変の真理なのである。この恒常不変の真理を体得した人物は道に合致することができると説く。タイトルの「帰根」とは、万物の根源である道に復帰するという意。

「虚を致すこと極まり、静を守ること篤ければ、万物並び作こるも、吾以て其の復るを観る」。「虚」は虚心であること。「静」は静心であること。「虚・静」は無為自然の道を認識するのに最適な方法。虚心に心静かにしていれば、万物が生じては、再びその根源である道に帰るという循環を見ることができる、ということ。

「夫れ物芸芸たるも、各々其の根に復帰す」。「芸芸」は草木の繁茂するさま。万物は必ずその根源たる道に復帰するものだ、ということ。

「根に帰るを静と曰い、是を命に復ると謂う」。「命」は福永光一「老子」に、「命は天が万物に命じた在り方。これを万物の側からいえば、己に与えられた本来的な在り方をいい、運命、天命、生命、性命などの意味をも含み得る」とあるように、様々な意味合いを含んだ語。根源である道の静寂さに帰る状態を「静」といい、天が与えた在り方に帰るというのだ、ということ。

「命に復るを常と曰い、常を知るを明と曰う」。「常」は恒常不変であること。「明」は聡明であること。天が与えたあり方に帰ることを、恒常不変といい、恒常不変を理解することを聡明というのだ、ということ。

「常を知らずして妄に作せば凶なり」。恒常不変の真理を理解せずに、めったやたらに何かを行ったならば、それは不吉な結果を招くことになる、ということ。

「常を知れば容、容なれば乃ち公、公なれば乃ち王、王なれば乃ち天、天なれば乃ち道、道なれば乃ち久しく、身を没するまで殆うからず」。「容」は寛容であること。「公」は公平であること。「王」は王者の徳を有すること。「天」は天理にかなうこと。「道」は道に合致すること。恒常不変の真理を理解できる→寛容にすべてを受け入れられる→公平無私の立場に立てる→王者の徳を身につけられる→天理に適うことができる→道に合致することができる→長久の寿命を得ることができ、生涯無事で危険はない、という論理。

 

明治書院 老子より

顕徳第十五 老子

昔の道を体得した人物は、微妙な奥義に通じており、心もはかり知れない奥深さを持っていた。ただただはかりしれないが、強いてそれを形容するなら、慎重であることまるで冬に川を渡るようであり、用心深いことまるで近所の人たちに気を遣うようであり、重々しい態度をとることまるで招かれた客人のようであり、物事にこだわらないことまるで水が融けるようであり、飾り気のないことまるであら木のようであり、心が空虚であることまるで谷のようであり、多くのものを受け入れることまるで濁った水のようである。いったい他の誰が濁っているものをそのままにし静かに徐々に潜むのを待っていられようか。またいったい他のだれが安定しているものを長いことかけて動かして、新しいものを生み出せようか。この道を保ってゆく者は、満ちることを望まない。ただただ満ちることを望まないから、いったん破れたとしても再び新しくなることができるのである。

 

前章では、道の捕らえ難いことについて述べてあったが、本章は、その道を体得した人物も捉え難いものだということを述べている。「顕徳」というタイトルは、その道を体得した人物の徳を明らかにする、という意のようである。

「古の善く士たる者は、微妙玄通、深くして識るべからず」。「士」は「道」に作る本もある。その場合は「古の道を善くする者は」となり、意味は通じやすい。ともかく、「士」は道を体得した人物の意。「微妙」は深遠で知り難いさま。「玄通」は奥深く通じていること。その人物は知り難い深奥な道に奥深く通じているので、彼自身も奥深くて理解することができない、の意。

「夫れ唯識るべからざる。故に強いて之が容を為せば」、彼はただただ捉え難い存在である。そうであるので形容することなどできるはずもないが、強引に形容すれば、の意。以下、道を体得した人物を形容している。

「与として冬川を渉るが若く」、「与」は「予」に作る本もあるが、いずれでも意味は通じて、ためらうの意。その人物は、冬に川を渡る者のように何事にもためらい慎重である、ということ。

「猶として四隣を畏るるが若く」、「猶予」と言う語があるように「猶」もためらうの意。「四隣」は四方の隣国・隣人。隣近所に気を遣うように、何事にもためらい用心深いということ。「儼として其れ客たるが若く」、「儼」は威厳のあるさま。他家に招かれた客人のように、何事にも威厳をもって臨むということ。「渙として氷の将に釈けんとするが若く」、「渙」はわだかまりのないさま。何事にも氷が融けるようにさらっとしていて、わだかまりがない、ということ。「敦として其れ朴の若く」、「敦」は篤実で飾り気のないこと。「朴」は山から伐り出したばかりのあら木のこと。何事にもあら木のように、きまじめで飾り気がないということ。「曠としてそれ谷の若く」、「曠」は広々として虚しいさま。何事をも谷のように虚しく受け入れるということ。「渾として其れ濁れるが若し」。「渾」は多くのものが入り混じったさま。濁った川の水のように、多くのものが入り混じったように受け入れるということ。

「孰か能く濁るも以て之を静かにして徐に清まさん」。いったい、この無為自然の道の体得者以外の誰が、濁ったものをそのまま受け入れ、静かにしておいてだんだんと澄んでいかせることができようか。つまり、多くのものが入り混じった状態を受け入れるということは、濁りを許容することに他ならないが、多くのものを受け入れ濁らせながらも、徐々に浄化して澄ましてしまうことができる人物、それが道を体得した人物だということ。

「孰か能く安んじて以て久しく之を動かして徐に生ぜん。同様に、道を体得した者のみが安定して永続性を持つ動かし難いものを、徐々に動かして新しいものに変えていくことができるのだ、ということ。

「此の道を保つ者は、盈つるを欲せず」。第四章に「道は冲にして之を用うるも、或しく盈たず」とあったように、無為自然の道は満ちることがない。従って、道を体得した人物は満ちるということを望まない、ということ。

「夫れ唯盈たず。故に能く藪るるも復成すなり」。「藪」は衣服が破れること。ここでは、単に破れること。満ちることがないということは余力があるということ。余力があるからこそ、たとえほころび破れたとしても、再び新しく作りだすことができるのだ、ということ。

明治書院 老子より

賛玄第十四 老子

道というものは注視しても見えない。そこでこれを名付けて「夷」(形のないもの)という。道というものは耳を傾けても聞こえない。そこでこれを名付けて「希」(音のないもの)という。道というものは探ろうとしても触ることができない。そこでこれを名付けて「微」(実体のないもの)という。この三者は究明することのできないものである。道というものはこの三者が渾然一体となったものである。その一体となったものは、上部が明るい訳でもなく、下部が暗い訳でもない。果てしなく続いていて名付けようのないものである。いわば混沌の状態に戻っているのである。これを形のない形、姿のない姿というのである。これをぼんやりしたものと呼ぶ。これを前から迎えようとしても頭が見えるわけではなく、後ろから従っていこうとしてもその末尾が見えるわけでもない。昔からの道理を取り持って今の存在を支配し、すべての存在の根源を知っている。これを道の大網というのである。

 

この章は老子の説く「道」というものを説明した文章である。道が人知では推し量り難く、無限の広がりを持ち、万物の根源たる偉大な存在であることを述べている。タイトルの「賛玄」も、道のこの深奥さを誉め称えるの意で、内容をよく表している。

「之を視れども見えず、名付けて夷と曰う」。「視」は注意深くみること。「見」は知恵として目に映じてくること。「夷」は影も形もなく、定かでないさま。そのものを注意深く見ようとしても見えない。そこでこれを「影も形もないもの」と呼ぶ、ということ。

「之を捕らえんとすれども得ず。名付けて微と曰う」。「捕」は「うつ」の意に取る説もあるが、ここではとらえる・さぐるの意にとった。「微」は触角としてかすかなさま。そのものをとらえようとしても触れることができない。そこでそれを「実体のないもの」と呼ぶ、ということ。

「此の三者は致詰すべからず。故より混じて一と為る」。「此の三者」とは、「夷、希、微」を指す。すなわち、順に視覚・聴覚・触覚を表している。「致詰」は究明するの意。「夷・希・微」の三者はそれぞれ、視覚・聴覚・触覚をもってしても究明できないものだ、ということ。道というものは、この三つのものが渾然一体となって一つになっている、ということ。

「其の上皦らかならず、その下昧からず」。「其の」は三つものものが混然一体となっている道のことを指す。「皦」は明白であること。「昧」は暗いさま。その道の上部は明白ではなく、その下部も暗い訳ではない。つまり、上部とは天のイメージで、本来は明るいはずであり、下部とは地のイメージで本来は暗いはずであるのにということ。福永光司「老子」には、「上部とは玄の玄なる道の本質をいい、下部とは道のはたらきによって現象してきた有形の万物をいう」とある。

「縄縄として名づくべからず。無物に復帰す」。「縄縄」は果てしないさま。無限定なさま。「無物」は物が形をとって存在していない状態、すなわち混沌のこと。道は無限定であって名付けようがなく、混沌の世界に立ち返っている、ということ。

「是を無状の状・無物の象という」。「無状の状」とは、形は人知を超越して見えないが、形はある。すなわち形のない形ということ。「無物の象」も、同様に姿のない姿、ということ。

「是を怱恍と為す」。「怱恍」はぼんやりしたさま。道がぼんやりしてとらえどころのないことをいう。第二十一章にも「道の物たる、唯恍唯惚」とある。

「之を迎うれども其の首を見ず。之に随えども其の姿を見ず」。道の無限定性を述べたもの。前に回って見ようとしても、後ろから追いかけてみようとしても、どうやっても見えないということ。

「古の道を執りて、以て今の有を御し、以て古始を知る」。道が主語。道は太古以来の道理をしっかりと握り、それで現在の万物を制御し、万物の始源をしっている、ということ。

「是を道紀と謂う」。「道紀」は道の大網・根本のこと。

 
明治書院 老子より

狷恥第十三 老子

人々は栄誉を受けては驚き、恥辱を受けては驚き、また身に大患を与えるはずのものを身を尊ぶのと同様に尊んでいる。では何を栄誉を受けては驚き、恥辱を受けては驚くというのであろうか。人々は栄誉を上とし恥辱を下としている。そしてこれらを受けても驚き、これらを失っても驚くのである。これを栄誉を受けては驚き、恥辱を受けては驚くというのである。では何を身に大患を与えるはずのものを身を尊ぶのと同様に尊んでいるというのであろうか。自分に大患があるのは、自身が存在するからである。自身が存在しなければ、いったい何の患いがあろうか。したがって自身を大切にするのと同様に天下を治めようとする者にこそ天下を託すことができるのである。また自身を愛するのと同様に天下を治めようとする者にこそ天下を託すことができるのである。

 

この章は、人々が栄誉や恥辱に一喜一憂しているが、もっと根本的なところに目を向け、其の自我を見出し、自身を大切に思うように他をも大切にする心を持つことが肝心だと述べている。それができる人物にこそ、天下を託すことができると言っているのである。「狷恥」とは恥辱を嫌うということで、そんな恥辱を嫌うことを超越せよ、という意味でタイトルとしている。

「寵辱驚くが若く、大患を貴ぶこと身の若し」。「寵辱」の「寵」は寵愛を受けること、「辱」は屈辱を受けることで、栄誉と恥辱のこと。「大患」とは、災いとなるもの。前章の「五色・五味・五音」など、身に災いをもたらすもののこと。ここは、主語を聖人とし、「聖人は世間の栄誉や恥辱に対してびくびくと慎重な態度を取り、世間の身に災いをもたらす財貨などに対して自身の身を貴ぶことと同程度のものと考える」とする説もあるが、ここでは主語を人々とし、「人々は栄誉を受けては驚き、恥辱を受けては驚くといったように、世間のつまらぬ価値観に左右され、また、身に災いとなるようなつまらぬ財貨なども吾が身を貴ぶように大切にしている」という意にとった。

「何をか寵辱驚くが若しと謂う。寵を上と為し辱を下と為す。之を得ては驚くが若く、之を失い手は驚くが若し。是を寵辱驚くが若しと謂う」。では、一体何を栄誉を受けては驚き、恥辱を受けては驚くというのであろうか。これは前文の「寵辱驚くが若く」の説明の部分である。「上」は貴い・優れたの意。「下」は賤しい・劣ったの意。「之を得ては」の「之」は「寵」を指す。栄誉を貴いものと考え、恥辱を賤しいものと考えている。そして、栄誉を得ても驚き、恥辱を受けても驚くといったように、このようなつまらぬものに拘っている以上は、その狂気からは逃れられないのである。

「何をか大患を貴ぶこと身の若しと謂う。吾の大患有る所以の者は、吾身を有とするが為なり。吾身を無とするに及びては、吾何の患いか有らん」。これも前文の「大患を貴ぶこと身の若し」の説明である。何を身に災いとなるようなつまらぬ財貨なども吾が身を貴ぶように大切なものとしているというのであろうか。自身の身に災いが起こるのは、自身というものが存在するからなのである。もし自身というものが存在しなければ、何の災いも生じないのである。「身を有とす」とは、「自身の身体が存在すること」、「身を無とす」とは、「自身の身体が存在しないこと」である。つまり、自分の身体を無きものと仮定したならば、つまらぬ財貨などを貴ぶこともいかに空しいことかがわかる、と言っている。

「故に貴ぶに身を以てして天下を為むる者には、乃ち以て天下を託すべし」。同様に、道理をわきまえた上で、真に自身の身を愛するのと同じように天下を治めようとする人物には、安心して天下を託すことができるのである、ということ。

 
明治書院 老子より

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