2015年09月

虚無第二十三 老子

言葉が少ないのが自然なのである。つむじ風は朝が終わるまで続くことは無く、豪雨は一日中続くことは無いのである。つむじ風や豪雨は誰が起こすのであろうか。それは天地である。天地でさえ、これを長続きさせることは出来ない。まして人間は尚更できない。だから、道に従事するものは、相手が道を心得ているものなら、その道に同じように従い、相手が徳をわきまえているものなら、その徳に同じように従い、相手が徳を失っているものなら、その失った徳を同じように失う。道を心得ている者と同じようにすれば、道を心得ているものも相手を得たことを楽しみ、徳をわきまえたものと同じようにすれば、徳をわきまえた者も相手を得たことを楽しむ。徳を失っている者と同じようにすれば、徳を失っている者も相手を得たことを楽しむ。信が足らなければ、ここに不信が生じるのである。

Self-empty fits humanity virtue.

Few words are natural.The strom never continue until morning,hard rain never continue all day long.Who make storm and hard rain. That caused from heaven and ground.Evenif them it's very hard to continue very long time. Of course human can't also. Therefore if who mastered taoism humanity virtue meets mastered humanity virtue,he acts as same as his customer. If he meets charity mind man , he acts as same as his cutomer. If you do same as humanity virtue,customer is pleased to make friends with,same as charity mind,
customer is pleased to make friends with. If you lack trust the doubt will happen between both. 

この章の前半は、真の言葉というものについての議論。老子の言う真の言葉とは、聞こうとしても聞くことのできないもので、必然的に音声的な言葉ではない。それらを超越した道に即した言葉である。したがって、雄弁はけっして真の言葉ではなく、「希言」こそ真の言葉なのだと述べている。後半では、無為自然の道に従う者は、どのような相手にも柔軟に対応し、常に偽りのないことを心がけるべきだと述べている。タイトルの「虚無」とは、己を虚しくすることによって道に合致するという意で付けられたもののようである。

「季言こそ自然なれ」。「希言」は無言の意。「希」はほとんどない、あるいは少ないの意。第十四章に「これを聞けども聞こえず、名付けて希と曰う」とあり、無言の意で用いられている。道に即した真の言葉は無言であるが、人間においても、無言が理想であるが、言葉を用いなければならないので、言葉が少ないの意に解した。また、第二章、第四十三章に「不言の教え」という語が見える。「自然」とは、人為の加わらないありのままの状態のこと。言葉というものは出来る限り少ないのが、道本来のありのままの姿なのだということ。

「飄風は朝を終えず、驟雨は日を終えず」。「飄風」はつむじ風。「驟雨」は突然激しく降る雨。にわか雨。音の激しいつむじ風でも、朝の間中吹き続けることはなく、音の激しいにわか雨でも一日中降り続けることはない。つむじ風やにわか雨を「雄弁」にたとえ、それらのない状態を「無言」にたとえている。つまり自然の状態では、つむじ風やにわか雨のない静かな無音の状態の方が常態である、ということ。ここは「希言こそ自然なれ」の根拠を示した部分。

「敦か此れを為す者ぞ。天地なり」。「此れを為す」とは、つむじ風を吹かせ、にわか雨を降らせること。つむじ風を吹かせにわか雨を降らせるのは一体誰なのか、それは人間ではなく、偉大な天地なのである、ということ。

「天地すら尚久しきこと能ず、而るを況んや人に於いてをや」。あの偉大な天地でさえ、つむじ風やにわか雨を永続させることは出来ない。すなわち、雄弁の状態を長続きさせることはできない、ということ。だから、人間なら尚更、雄弁の状態を長続きさせることは出来ないのだ、ということ。

「故に道に従事する者は、道にある者は道に同じくし、徳有る者には徳に同じくし、失える者には失えるに同じくす」。道に即して行動するものは、相手が有道者であればその道に、相手が有徳者であればその徳に、相手が徳を失ったもの(仁者)であれば、その失った徳に従う。すなわち、相手に応じて柔軟に態度を変える、ということ。なお、徳を失ったものを仁者としたのは、第三十八章に、「道を失いて後徳、徳を失いて後仁」とあるのによった。

「道に同じくすれば、道ある者もまた之を得るを楽しむ。徳に同じくすれば、徳有る者も亦之を得るを楽しむ。失得るに同じくすれば、失える者もまた之を得るを楽しむ」。道に従事する者は、有道者に従えば、有道者の方でも喜んで迎え入れてくれる。以下、同様に、有徳者も喜んで迎え入れ、仁者も喜んで迎え入れてくれる、ということ。

「信足らざれば、ここに不信有るなり」。この句は第十七章にも見える。「信」は偽りのないこと。信実の心が足りないから、不信という人を信じない心が生ずるのである、ということ。

 


明治書院 老子より

苦恩第二十四 老子

爪先立って立つものはそのまま長く立ち続けることはできないし、大股でまたぐようにして歩こうとする者は遠くまで行くことは出来ない。自分を顕そうとする者は世に知られることはなく、自分を正しいとする者は世に認められなくなる。自分を自慢する者は世にその功績を知られず、自分の才能を誇るものは世に長としては認められない。これらを道に照らし合わせて考えてみると、食べ残しの物や贅肉の様に無駄なものである。世の万物はこれらを嫌悪する。だから、無為自然の道を体得したものはそのような立場に身を置かないのである。

Merit of modesty and patience.

Standing on tiptoe can't stand for a long time,walking overreach oneself can't go far away.
A man standing out never be known in the world, a man persisting I am right will never
be recognized in the world. A man proud oneself will never known his merits in the world,A man prouding one's talent will never recognized as a leader of the world. Rethink these theories according to taoism they are all vain like rest of the dinner and fat body. Everthing in the world all hate it. So master of taoism who know nothing to do never take place oneself such a situation.

この章は、無為自然の道に反する不自然な事柄を取り上げ、それら不自然な行為は永続せず、静かに謙虚に道に従って生きるのがよいと述べている。タイトルの「苦恩」は内容から考えて、どのような理由から付けられたかは不明。

「跂つ者は立たず、跨ぐ者は行かず」。「跂」は爪先立つこと。人間の立ち方としては極めて不自然な状態である。つまり、平常の身長より己を高く見せようと、不自然につま先立ちをすること。「跨」は大股で歩くこと。人間の歩行としては極めて不自然な状態である。つまり、平常の歩行より早く先に行こうと、不自然に大股で歩くこと。いずれも老子の嫌う上昇志向の表れた状態である。つま先立ちをしたり、大股で歩いたりという無理な不自然な状態は長続きしないのだ、ということ。

「自ら晃す者は明らかならず、自ら是とするものは彰らかならず。自ら伐る者は功無く、自ら矜る者は長とせられず」。「自ら見す者」とは、自己顕示欲の強い者のこと。「自ら是とする者」とは、自分こそ正しいとする者のこと。「自ら伐る者とは、自分の功績を自慢する者のこと。「自ら矜る者」とは、自分の才能を誇る者のこと。ここの四句は、第二十二章に「自ら晃さず、故に明らかなり。自ら是とせず、故に影らかなり。自ら伐らず、故に功有り。自ら矜らず、故に長たり」とあり、本章とは逆の表現ながら同内容を述べている。自分を世に示そうとする自己顕示欲の強い者は、人々から嫌われて逆に世にその名が明らかにならず、自分こそが正しいとする者は、人々から嫌われて、逆に世に認められなくなり、自分の功績を自慢する者は、人々から嫌われて、逆に功績を挙げることができず、自分の才能を誇る者は、人々から嫌われて、逆に人の上に立つ長とはなれない、ということ。

「其の道に於けるや、余食贅行と曰う」。「余食贅行」とは、食べ残しのものと、贅肉。「贅行」を余計な行為とする説もある。ここに述べてきた「爪先立ちや大股での歩行」などは、無為自然の道から見れば、食べ残しや、贅肉のように「何の役にも立たない無駄で余分な物なのだ、ということ。

「物或に之を悪む。故に有徳者は処らず」。「物」は人間を含めた万物のこと。造物主とする説もある。「或」は「常」の意。世の万物はいつでも、これらの不自然で、無駄な行為を嫌悪するものである。万物を嫌悪する者は道とは合致しないものであるから、道を体得した人物は、そのような行為を為す立場に身を置こうとはしないのである、ということ。


明治書院 老子より

益謙第二十二 老子

曲がったものは完全であり、曲げたものは真っ直ぐになる。窪みがあるから水が満ちるのであり、古ければ新しくなる。少なければ手に入り、多ければあれこれ迷って手に入らない。こういうわけで聖人はひたすら道に則り、世の人々の手本となるのである。自分自身を表そうとしないので、逆にその存在が明らかになるのである。自分自身を是としないので、逆にその正しさがはっきりするのである。自分自身の業績を誇らないので、逆にその功績が認められるのである。自分自身の才能を誇らないので、逆にその才能を認められるのである。そもそも、ただただ争わない。だから誰も彼と争うことは出来ないのである。昔の諺の「曲がっていれば完全である」というのは、どうして嘘だと言えようか。本当に完全の状態で万物の母に返すのである。

この章は、老子の哲学の重要な要素の一つである「不争の哲学」について述べている章である。第三十三章、第六十八章にも「不争の哲学」についての議論がある。他と争わず、常にへりくだった態度を取っている者には、天が利益を与えてくれるということで、「謙譲の徳の持ち主を益す」という意のタイトル「益謙」が付けられている。

「曲なれば則ち全く、杠なれば則ち直し」。「曲」も「杠」も曲げるもしくは曲がっていること。「曲なれば則ち全く」とは、例えば曲がった木を連想すると良い。曲がった木は材木として人間の役に立たない一見マイナスの存在であるが、木自身の立場で考えると曲がっているからこそ、人間に伐採されることも無く寿命を全うできるのである。したがって、曲がっていれば完全なのである。「杠なれば則ち直し」の方も、尺取虫を連想すると良い。尺取虫はいったん身を曲げるというマイナスの行為をするからこそ、真っ直ぐになって前進することができる。だから、曲がったものは真っ直ぐになるのである。ともに人間についても同じことが言えるという議論。

「窪なれば則ち盈ち、蔽なれば則ち新なり」。「窪」は窪地のこと。「盈」は水がいっぱいになること。「蔽」は衣服が擦り切れること。「窪なれば則ち盈ち」とは、水について考えればよい。凹地という地面より低い一見マイナスの部分があるからこそ、水がそこに一杯になることができるのである。だから、窪みがあるから水が満ちるのである。「蔽なれば則新なり」とは、衣服について考えればよい。衣服が擦り切れるという一見マイナスの作用があるからこそ、新しい衣服に替えるのである。だから、古ければ新しくなるのである。ここも、人間についても同様だ、という議論。

「少なければ則ち得、多ければ則ち惑う」。ここは、学問や知識を想起すればよい。学問や知識が少ないという一見マイナスの状態も、そんな人為的な物を否定する道に近づく状態であって、結局大きなものを得る。逆に、学問や知識が多いという一見プラスの状態も、そんなつまらぬものが多いがために迷いを生ずる結果となる。だから、多ければあれこれ迷って手に入らないのである。

「是を以て聖人は一を抱き、天下の式と為る」。「一を抱き」は第十章にもあったが、「道を抱いて」の意。「式」は法式すなわち手本のこと。以上の様な訳で、道を体得した聖人は、常に道を心に抱いて諸事を行うので、道に合致した存在となり、天下の手本となるのだの意。

「自ら見さず、故に明らかなり。自ら是とせず、故に彰らかなり。自ら伐らず、故に功有り。自ら矜らず、故に長たり」。ここも逆説。聖人の行為はすべてへりくだっているので、逆にプラスの方向性を持つということ。自身を表そうとせず、正しいとせず、業績を誇ろうとせず、才能を誇ろうとしないので、逆に人々から明らかに認められ、正しさが認められ、功績が認められ、才能が認められるのだ、ということ。

「夫れ唯争わず、故に天下能く之と争う莫し」。「夫れ唯争わず」の表現は第八章にもあり、「故に天下能く之と争う莫し」の表現は第六十六章にもある。老子の不争の思想のよく表れた部分である。ひたすら謙虚に、他と争うことを欲しないので、他の者は争おうにも争えずに終わってしまう、ということ。

「古の所謂曲なれば則ち全しとは、豈虚言ならんや。誠に全くして之を婦すなり」。「曲なれば則ち全し」というのは、昔からの諺であったと考えられる。「全くして之を婦す」も「大戴礼」に「父母を全くして之を生めり。全くして之を婦すは、考と謂うべし」などとあり、諺となっていたと考えられる。「曲がっていれば完全である」という昔からの諺はけっして嘘ではない。本当に「完全な状態で婦す」という諺のように、万物の母(父)である道に自分の完全な身体を婦すということなのだ、という意味。

 

明治書院 老子より

道化第四十二 老子

道がまず一元気を生じ、一元気が陰陽の二気を生じ、陰陽の二気が合して三番目の沖気を生じて、沖気が万物を生ずるのである。万物は陰を背に負い、陽を胸に抱き沖気が陰陽の気を和合させる。人が嫌悪するものはただ孤(みなし児)と寡(徳が少ないこと)と不殾(不善)とだけである。ところが、王公はそれらを自称に用いてへりくだっている。だから物は常に減らせば増え、増やせば減るのである。人々が教えていることを、私もまた人に教えよう。「やたらに力を頼む者は、まっとうな死に方ができない」と。私はこの言葉を教えの第一としよう。

Everything from taoism theory of the universe.

Taoism theory of universe create one force , one force spilit shadow and light two force, two shadow and light two force mege and new third force, and new third force makes eveything. All things have shadow on his back and hold light at the heart, third force mege both shadow and light force. Only that people hate are  an orphan, less himanity moral , and vice. But Kings call himself orphan modesty. Therefoe things make increase then decrease make decrease then increase. I teach others what they teach. The man too much tend to force can't die normal way. I take this as the first lesson.
 

この章は、道から一元気が生じ、そこから二気が、さらに第三の気が生じて、その後に万物が生じるという、万物生成の原理を説明し、さらに常に謙虚に柔軟にという処世の大切さについても述べる。「道化」というタイトルは、「道から万物が化育される」という意で、本章の趣旨に合致している。

「道は一を生じ、一二を生じ、二三を生じ、三万物を生ず」。第三十九章でも述べたが、老子は、道と言う無の世界のものから、有の世界のものである万物への変化の過程を、数字を用いて巧みに説明する。まず、無から有への橋渡しとして、道は一元気を発生させる。道は本来形をとらない混沌とした万物未分化の状態であり、根源的な存在である。そこから形をとるべく一元気が発生する。しかし、この一元気はまだ万物を生み出す能力を持たず、「陰陽」の二気を発生させるだけである。だが、この陰陽の二気も、一段階進んではいるものの、それだけでは万物を発生せしむるには至らないとする。この陰陽の二気から第三の、いわば触媒となるような気が発生し、その第三の気を核として万物が発生するのだ、と説く。すなわち、本文で言う「一」とは「一元気」、「二」とは「陰陽の二気」、「三」とは「第三の気(陰陽二気プラス沖気で三)」のことである。

「万物陰を負いて陽を抱き、沖気以て和を為す」。「沖気」は陰陽二気から発する第三の気。万物と言うのは、陰の気を背に負い、陽の気を胸に抱き、沖気が陰陽の気を和合させる。すなわち、万物は、陰の気と陽の気とを内在し、「沖気」という第三の気が一種の触媒となって陰陽二気を合体させて発生すると言う、万物生成のメカニズムを述べているのである。

「人の悪む所は、唯孤・寡・不殾のみ。而るに王公以て称と為す」。人が嫌がるものはただ「孤・寡・不殾」だけである。「孤・寡・不殾」は順に「父のいない孤児・徳の少ない者・善行を積まぬ者」の意。ところが、諸侯はこの「孤・寡・不殾」をへりくだった自称として用いている。つまり、諸侯は従来謙虚さと柔軟さとをわきまえていたので、これらの語を自称として用いるようになった、ということ。

「故に物或に之を損して益し、或に之を益して損す」。だから、物はいつも減らせば増え、増やせば減ると言う仕組みになっている。つまり、常に謙虚でいれば、逆にその身は高められ、常に傲慢な態度でいれば、逆にその身は損なわれることになる、の意。

「人の教うる所は、我も亦之を教えん。強梁なる者は其の死を得ず、と」。「人の教うる所」とは「強梁なる者は其の死を得ず」を指す。「強梁」は剛強と同じ。だから、他の人が弟子に教える次のような言葉「あまりに自分の力を頼む剛強な者は、まっとうな死を迎えられない」を、この私も教えよう、ということ。

吾将に以て教父と為さんとす」。私はこの言葉を教えの父としよう。すなわち、この言葉を自分の教えの根本、モットーとしよう、ということ。


明治書院 老子より

五行思想

去用第四十 老子

道という根源に、返そう返そうとするのが道の働きであり、あくまでも柔弱にというのが道の作用である。世の万物は有から生じ、その有は無から生じるのである。

Eliminate common overbearing action and effect

The taoism humanity virtue way is making one back to the orign of humanity virtue and takes soften working way. All things of the univers born from some exist and it from nothing.

この章は、道の作用について述べる。道は常に万物を根源に立ち返らそうとし、常に万物を柔弱にさせようとする。すなわち常に無の世界に戻そうとしていると説く。「去用」というタイトルは、どうして付けられたのかよく分らない。「作用に去く」すなわち「偉大な道の作用を目指す」の意なのかもしれず、「作用を取り去る」すなわち「世俗的な強引な作用を取り除け」の意なのかもしれないが、はっきりしないタイトルである。

「反は道の動、弱は道の用なり」、「反」は、「返」と同じで、「立ち返らせる・復帰させる」の意。「動」は、「運動」で、「働き」の意。「弱」は、「柔弱にさせる」の意。「用」は「作用」の意。万物をその根源である道に復帰させよう、立ち返らせようとするのが、道の働きであり、天下で最も柔弱な存在である道と同じように、万物を柔弱にさせようとするのが、道の作用なのである、ということ。

「天下の万物より生じ、有は無より生ず」。天下の万物は皆「有」の世界で発生するが、その「有」の世界は、「無」の世界、乃ち道から生じたものである。前章(第三十九章)の「背景」で述べたように、究極の根源である「道」から、「有」の世界に移行すべく、一元気が生じ、一元気から、陰陽の二気、陰陽二気から、第三の触媒と為る気、そこから万物が生ずるわけなので、ここの「有」は、一元気を指すと考えることができる。すなわち、「有」の世界の存在である万物は、「一元気」をその発生源として発生し、その「一元気」は、究極の「無」である「道」から発生した、ということ。

 

明治書院 老子より

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