2015年08月

巧用第二十七 老子

真によく道を行く者はその痕跡を残さないし、真に良い言葉を言うものはその発言に過ちがない。良く計算するものは算木などは使わないし、よく戸締りをする者はかんぬきや鍵を用いなくとも開けることは出来ないし、よく結ぶ者は縄やひもを用いなくてもほどくことができない。こういうわけで、聖人は常に良く人を救うので、棄てて顧みられないという人が存在しない。また、常に良く物を救うので、棄てて顧みられないという物が存在しない。これを明でありながら明を覆い隠すというのである。だから善人は不善人の師であり、不善人は善人の助けとなるのである。善人を貴ばず、不善人を愛さなければ、いくら知者と言われているものでも大いに迷いを生じてしまう。これを奥深い真理というのである。


この章は、「善」というものについての議論。「善」とは人為を捨て去り、無為自然の道に合致して万物をありのままに受け入れることで、道を体得した聖人は善悪と言った概念を超越した真の善により、万物を包含していくことを述べている。「巧用」というタイトルは人為を用いない真の巧みさで働く「用」という意。

「善く行くものは轍迹無く、善く言うものには瑕謫無し。」「轍迹」は車のわだちの跡。車の通った痕跡のこと。「瑕謫」は「玉のきず」と「とがめ」のこと。ここでは、欠点のこと。真によく道を行く人は、その通った痕跡を残さないし、真によく言葉を言う者は、その発言に欠点がない。無為自然の道を体得した聖人の行為には行為の跡がまったくなく、また聖人の言葉にはまったく欠点がない、ということ。

「善く計るものは儔策を用いず」。「儔策」は計算に用いる算木のこと。真によく計算をする者は算木などを使うことがない。道を体得した聖人の計らいは、人為的な計らいの道具などはまったく必要でない、ということ。

「善く閉ざすものは閈楗無くして開くべからず」、「閈楗」は「かんぬき」と「かぎ」のこと。真によく戸締りをする者は、かんぬきやかぎを用いなくても開けることができない。道を体得した聖人の戸締りには、人為的な戸締りの道具は必要ではない、ということ。

「善く結ぶものは縄杓無くして解くべからず」。「縄杓」は縄やひものこと。真によく結ぶものは、縄やひもを用いなくてもほどくことができない。聖人が心を道に結び付けるその結び方は、人為的な結ぶものを用いてはいないが、決してほどくことができない、ということ。

「是を以て聖人は常に善く人を救う、故に棄人無し」。「棄人」は棄てて顧みられない人のこと。このように聖人は無為自然の道に基づいて何事も善く行うので、いつも人々を善く導き救うのである。したがって、人々に棄てて顧みられないという者がいないのだ、ということ。

「常に善く物を救う、故に棄物なし」。同様に、聖人はいつもよく物を救うので、棄てて顧みられないという物はないのだ、ということ。

「是を襲名と謂う」。「襲名」は「明を覆う」ということ。一説に「明に入る」(絶対の知恵を身につける)、他説に「明を重ねる」(知恵の上にも知恵を重ねる)の意とする。これを絶対の知恵を持ちながら、それを覆い隠すというのだ、ということ。

「故に善人は不善人の師、不善人は善人の資なり」。「資」は役に立つ、助けとなるの意。聖人は棄てて顧みない人物を作らないので、善人だろうが不善人だろうが、存在価値を認めて差別なく扱う。だから、善人が不善人の師匠になったり、不善人が善人の役に立つものとなったりするのだ、ということ。

「其の師を貴ばず、其の資を愛せざれば、智なりと雖も大いに迷う」。上文とは逆に、師匠たる善人を貴ばず、また役に立つ存在の不善人を愛さなかったなら、どんなに知恵のある者であっても、大きな迷いに陥ってしまうのだ、ということ。

「是を要紗と謂う」。「要紗」は奥深い真理のこと。善人であっても不善人であっても、誰彼の差別なくその存在価値を認め、愛し導いていくのが、無為自然の道の奥深い真理に合致していることなのだ、ということ。



明治書院 老子より


よく結ぶというのは、永久不変の人や社会の道理から離れないことで、人の心に道徳心、人としてあるべき姿や言動を理解させ不徳の道に足を踏み入れさせないことである。当たり前のことであるから、皆受け入れ、当たり前のことを当たり前のように行っていく日常を守り離れないということになるのであろう。

克己復礼

政治の道では、代表者である政治家は無報酬である方が良いのかもしれない。仁に言われる博愛というのも自己犠牲を伴わない愛はないという。無報酬で多くの市民の為に地域の在り方を計画し実行していく、この姿勢には老若男女を問わず感銘を受けることであろう。誰にもできることかというと、それは少々無理があり、既に事業基盤を確立し人事や経済の仕組みを理解し、人や物を良く扱える素養を身につけていなければできない。
人心や経済物流、自然科学の仕組みを理解して、無理や不可能を避けて、実現可能な計画を遂行していく、社会や役所からの報酬は一切ないが、地域社会が向上することは自らの事業基盤も向上することであるから従業員全体にまで少なからぬ利益は及び人望や信頼という、お金に換算できない名誉を得るのが最大の報酬と為るのが、老子の道、聖人の域に近ずくことではなかろうか。天子の耳に入らぬことはないであろう。
大臣というのも単なるチェアマン、議長でしかないのである。私見は持たずである。

アメリカの初代大統領ワシントンも測量技師でアメリカ中を回って測量図を農民に提供していたそうだ。自分の土地の特性を理解すると農民もより良い耕作が行えるようになったそうである。パイオニア精神の国、アメリカの建国当初は開拓の為の知識と技能を備えたワシントンの様な人材がまさに適任だったのだろう。

経済の語源は経世済民だそうだ。世を経り良く民を済(すく)うのである。


反朴第二十八 老子

剛強な雄の立場を知ったうえで、柔弱な雌の立場を守っていったならば、万物が慕い寄るような天下の谷となる。天下の谷となったならば、不変の徳が身から離れず、嬰児のような無心な状態に立ち返るのである。何物にも染まらない純白な立場を知ったうえで、汚濁の黒い世界に混じるという立場を守っていたならば、天下の模範となる。天下の模範となれば不変の徳が更まることもなく、限りない根源の道に復帰するのである。栄誉を受ける立場を知りながら、恥辱の立場に自身を置いたならば、人々が慕い寄る天下の谷となるのである。天下の谷となったならば、不変の徳が満ち足りて、あら木の様な立場に復帰するのである。あら木が切り出されると器になる。あら木のような聖人がこの器の様な人物を用いて統括者となる。したがって真に大きな制作は分割しないのである。

Back to simple.

Knowing the strong and sturdy male position one hand and keeping the weak and soft female positon if you do so , you will become the valley of whole the country all things long for gathering. If you become like that valley , fullfilled the unchange virtue and go back to the presence like fresh cut off tree. Fresh cut off tree become a vessel. A saint like fresh cut off tree  become governer using these like vessel person. Therefore true large production will never separate. 

この章は、老子の考える無為自然の道を体得するには、根本原理に立ち返るべきだという議論。万物を生み出す母性(雌・谷)、根源的無垢の状態(嬰児・朴)などを最も道に近い存在として述べている。タイトルの「反朴」も「素朴な状態に立ち返る」の意で、この章の内容によく合致している。

「其の雄を知りて、其の雌を守れば、天下の谿と為る」。「雄」は男性、剛強さを表す。「雌」は女性、柔軟さを表す。「谿」は谷間。万物が慕い集まる場所の比喩。また、女性の生殖器を暗示し、万物を生み出す母性=道のこと。男性の剛強さの持つ意味を十分理解したうえで、女性の柔軟さを保ち続けたならば、万物が慕い寄るような偉大な天下の母性となることができる、ということ。第六章に「谷神死せず、是を玄牝と謂う」、第十五章に「曠として其れ谷の若く」などとあり、谷を万物の根源たる道を表すものとしてしばしば述べている。

天下の谿と為れば、常徳離れずして、嬰児に復帰す」。「常徳」は恒久不変の徳の意。「嬰児」は赤子のこと。世俗的な人為的な物に支配されている大人と異なり、素朴で純粋な無為の存在として、老子が水と共に貴んでいるのが赤子である。第十章に「気を専らにして柔を致して、能く嬰児たらん」、第二十章に「嬰児の未だ孩せざるが如く」とある。万物が慕い寄る「天下の谿」となったならば、永遠に変わらぬ無為自然の徳を身につけることができ、嬰児のような無知無欲の状態に立ち返ることができる、の意。

「其の白きを知りて、其の黒きを守れば、天下の式と為る」。ここの二文は前二文と同じ表現。「白」は明白な事。純粋に何物にも染まらぬ状態を表す語。また「黒」は「雄」が「雌」に対するのと同じく、「白」よりも道に適った状態と老子が考えるものである。「式」は手本、第二十二章に「是を以て聖人は一を抱き天下の式となる」とあった。純粋な何物にも染まらぬ世界を十分理解したうえで、暗黒の混沌とした世界に身を置き続けたならば、天下万物がその人物を手本とする、ということ。

「天下の式と為れば、常徳忒まらずして、無極に復帰っす」。「忒」は変更の意。「無極」は極まりのないもの。すなわち道の事。天下万物の手本となることができれば、無為自然の徳を変えさせることも無く、極まりない道に復帰することができる、ということ。

「其の栄を知りて、其の辱を守れば、天下の谷と為る。この二文も同様の表現。「栄」は栄誉。「辱」は汚辱。「栄」より上位のものと考える。「谷」は谷間。一説によれば、谷間の大きいのを「谷」、狭く小さいのを「谿」とする。栄誉の立場というものを十分に知り尽くした上で、汚辱の立場を守り通していったならば、万物が慕い寄る天下の谷となることができる、の意。

「天下の谷と為れば、常徳乃ち足りて、朴に復帰す」。「朴」は山から切り出したあらきのこと。「あら木」は第十五章「敦としてそれ僕の若く」、第十九章「素を見わし朴を抱き、私を少なくし欲を寡なくせよ」に既出。天下の谷となることができれば、無為自然の徳が満ち足りて、人為の加わらないあら木の状態に立ち返ることができる、ということ。

「朴散ずれば則ち器と為る」。「器」は器物。あら木を伐り出し、加工して様々な人間にとって有用な器物を造り出す。つまり、道に近い存在のあら木に人為的なものを加えて、人間には役に立つかもしれないが、一部分の約にしか立たない別のものに作り変えてしまう、ということ。一説に、ここを表面上の意としてとらえ、「あら木を伐り出して様々な有用な器物に作り変える」とし「器」をプラス評価するものもある。ここでは「器」をマイナス方向のものと見た。

「聖人是を用うれば則ち官長と為る」。「官長」は百官を統率する長の事。ここでは、「聖人」を官庁となるの主語とした。一説に官長を百官のそれぞれの一部門の長とし、「官長と為る」の主語を「器― 一つの役にしか立たぬ人物」とする。道を体得した聖人がこの器たる人物を用いたならば、それぞれの役に立つ部分的才能を活かして、彼らを統括する長となるのだ。つまり無為自然の道から見れば、器たる人物は、つまらぬ存在ではあるが、聖人はそれを使いこなすのだ、ということ。

「故に大制は割かざるなり」。「大制」は偉大な裁断の事。真に偉大な裁断の名人という者は、あら木を伐って器とするようなことはせず、切り出すという作業をせずに、万物を自然のままに止めるのだ、ということ。


明治書院 老子より




新木を切り出して器となるのはそろばんの玉や軸のようなもので、これを集めて1玉と4玉に区切りで分けて隙間をそれぞれ作って並べ枠にはめることで算木と呼ばれるそろばんになる。部品の制作と算木の機能の持たせ方はそれぞれ別の思考や構想がある。玉を新木から削り出せるだけでは不十分で算木の十進数の計算方法という構想があって始めて5玉と1玉を分離区別して隙間を一つ作って上下にスイッチすることで複雑な計算を実現している十進スイッチングコンピューターの原点のような存在が基本構想にあって始めて玉のデザインが完成する。玉はデザインだが十進計算の構想がなければいくら立派な玉でもなんの役割も果たせないつまらない器ということになるが構想に基づく制作に組み込まれることで信じられない機能性を発揮する。
しかし、暗算名人になるとこのそろばんさえも頭の中に空想で造り出すことができるので使い方を知っていれば無限と思える暗算を行ってくれる。良く計算する者は算木など使わないと言う一説が老子の中にあるが名人技を目の当たりにするまでは何のことだかわからない。




夏目雅子のおっしょうさんがやっと誰何だか分かった。確信した。
暴れん坊猿は日本で、食いしん坊豚は朝鮮で、エロ河童は中国ってのは、そのまんま想像できてたんだが・・。
先見の明あるよ、このプロデューサー。


偃武第三十一 老子

そもそも優れた武器は不吉な道具である。世の万物はこれを嫌悪する。だから道を体得したものは武器に関わる立場に身を置かない。立派な人物は平時には左を貴び、武器を用いる戦時には右を貴ぶ。武器は不吉な道具であり、立派な人物の用いるものではない。やむを得ず武器を用いる場合でも、あっさりと用いるのが最上である。戦いに勝っても褒め称えないことである。しかし、それを褒め称えるものは、人を殺すことを楽しむ者である。そもそも、人を殺すことを楽しむような者は、世の中で自分の志をかなえることなどできないのである。吉事では左を貴び、凶事では右を貴ぶ。軍隊では、偏将軍が左に座を占め、上将軍が右に座を占めている。これは軍隊というものが人を殺すものであるから、葬礼の時の座の占め方にならっていることを言うのである。だから戦争で人を殺すことが多い時は、悲哀の心をこめて泣き、戦いに勝っても葬礼の方法で対処するのである。

Stop the war.

 To begin in with, superior weapoin is bad instrument. All of the world hate it . So masters of Taoism don't take place themself concerning the buad weapon. The master of Taoism respect left wing when the peace era,but when war time he uses the weapon, he honors the right wing.
 The weapon is bad insturument, therefore it's not for the master of Taoism . When he uses it Inevitably , it's the best way to use only simply . Never honor when victory the war. But the man honor the victory is enjyoing murders. In the first place the man who enjoy the nurders never attain one's ambition.
 when a good luck honor the left wing , when a bat honor right wing .
 In the military sub general takes place left wing and general takes place right wing . This is why the military kill the troops they take place the way of attending a funeral. Because when too many died by the war , cry for sorrow , evenif overcome the war master of Taoism take the way of attending a funeral.

 The war is killing people activity , so nobody can justify the war even if try to justify any way in roud.
 Therefore in any case everybody never honor it.

この章も前章に続いて、一種の非戦論を展開している。戦争はどんなに正当化しようと人を殺す行為であるから正当化できない。したがってやむを得ず戦う場合でもけっして賛美してはならないと主張している。タイトルの「偃武」も「武事(戦争)を偃(や)める」の意で、本章の趣旨に合っている。
 「夫れ佳兵は不祥の器なり」。「佳兵」は優れた武器のこと。「佳」の文字は「隹」の誤写で、「隹」は「唯」と同義で、「唯」の意に取るべきだとの説もある。「不祥」は不吉の意。そもそも優れた武器(鋭利な刃剣や強力な弓矢など)は、人を殺すための不吉な道具である、ということ。
 「物或に之を悪む。故に有道者は処らざるなり」。「物」は世の万物。誰もがの意。「之」は「佳兵」を指す。世の誰もがこの不吉な道具である優れた武器を嫌悪する。だから道を体得した人物は、そうした不吉な武器を用いる立場に身を置かないのである、ということ。ここの表現と同じ表現が、第二十四章に見える。
 「君子居りては則ち左を貴び、兵を用ちうるときは則ち右を貴ぶ」。「左を貴ぶ」とは加藤常賢によれば、穢れたものを持たない左手を神聖視した原始信仰により、左を上位としたとする。「右を貴ぶ」とは、同じく加藤常賢によれば、戦争は死者をともなうもので、戦争は穢れに連なる行事とする原始信仰により戦争に於いては、平時とは逆に右を上位としたとする。平時には神聖な左を選び、武器を用いる戦争には逆に右を貴ぶ、ということ。
 「兵は不祥の器、君子の器に非ず」。「君子の器」は君子の用いるべき道具の意。
 「已むを得ずして之を用いるも、恬淡を上と為す」。「恬淡」は心安らかなること。あっさりして執着しないの意。必然に迫られてやむを得ず不祥の武器を使用する場合でも、必要最小限にあっさりと使用すべきである、ということ。
 「勝ちて美とせず。而るに之を美とするものは、是人を殺すを楽しむなり」。「美とする」とは「よしとして褒め称える」こと。戦争に勝ったとしてもそれをよしとして賛美したりしない。ところが、それを賛美するものは、人を殺すことを楽しんでいるようなものである、の意。
 「夫れ人を殺すを楽しむ者は、則ち以て志を天下に得べからず。」「忠を得る」は、いわゆる栄達をいうのではなく、本然の生を全うすること。そもそも人を殺すことを楽しむ様な人間は、世の中で全うな人生を送ることはできない、という意。
 「吉事には左を貴び、凶事には右を貴ぶ」。冠婚などのめでたい行事には左を貴び、葬礼などの不祝儀には右を貴ぶ、の意。
 「偏将軍は左に処り、上将軍は右に処る」。「偏将軍」は上将軍を補佐する副将軍。「上将軍」は最高軍司令官。軍隊では上位の上将軍が右に座席を占め、下位の副将軍が左に座席を占める。
 「葬礼を以て之に処るを言う」。軍隊は人を殺す不吉な場所なので、凶事である葬礼の場合に従って、その座席の位置も定められている、ということ。
 「人を殺すことの衆きときは、悲哀を以て之に泣き、戦い勝ちては葬礼を以て之に処る」。戦争で人を殺すことが多いときは、葬礼と同じように悲哀の心を込めて泣き、戦いに勝ったときも、葬礼と同様に対処する、ということ。

明治書院 老子より




倹武第三十 老子

道に従って人主を助けるものは、武力でその国を天下の強国にしようなどとはしない。物事と言うのは必ず我が身に返ってくるものであるからだ。軍隊のとどまった地には、田畑が荒らされいばらが生えてしまう。大戦争の後には必ず凶作の年がやってくる。良い政治を行うものは果断であるだけだ。けっして自国を強大にしようとはしない。果断であっても、尊大にはせず、果断であっても才能を誇らず、果断であっても、奢り昂ぶらず、果断であっても、やむをえずするだけである。物事は盛んになれば、必ず衰える。それは自然の道ではない、自然の道でなければ、すぐに滅び去ってしまう。

Modest the military.

The man who helps King with humanity never become his nation stronger with big military force. Because everything turn back to oneself. The place troops stay is going to ruhin wild field and nobody maintain. After the big war a lean year comes certainly. The person who do good politics is only decisious but never tend to it's country as the huge military nation.
Decisious but not proud,decisious but not proud his talent,decisious but not luxry,decisious but only simply. Everthing will get weak after  flourish . Prosper is not natural way , so if it is not natural way , it will soon get weak and disappear.

この章は、いわゆる「奢れる者は久しからず」ということを述べたものである。ここも、前者と同じく、戦国時代と言う時代が背景となっての議論であろう。武力でもって国の強大化をはかり、天下の覇者を目指すことは、無為自然の道に反し、かえって滅亡の道に至るだけだと言う、一種の非戦論である。「倹武」というタイトルも、武事を慎ましくするという意で、この章の内容に合致している。
「道を以て人主を佐くる者は、兵を以て天下に強くせず」。「人主」は君主のこと。「佐」は補佐の意。ただし、老子の無為自然の道を体得した人物が、人君を補佐する立場にあると言うことは、本来は考えられないので、「道を以て佐くる人主は」とする説、「佐」を「作」の字とし「道を体得して人主と作(な)る者は」とする説もある。道を体得している臣下は軍隊の虚しいことを熟知しているので、人主の国を補佐するのに、武力で強固にのしあげようなどとはしない。
「其の事好く還る」。何か物事を為せば、必ずその報いが返ってくるからである。ここも「道に立ち返る」の意とする説がある。
「師の処る所には、荊棘生ず」。「師」は軍隊のこと。周代では、二千五百人を一師としていた。「荊棘」は「荊」も「棘」もともに「いばら」のこと。軍隊が駐屯した土地では、人々はかりだされて農業はおろそかになり、また農地も荒らされて、あとには農地にいばらが生い茂ると言う結果になるということ。
「大軍の後には、必ず凶作有り」。「大軍」は大きないくさのこと。大きな戦争の後には、農民が兵士としてかり出されたり、農作業がおろそかになったりして、また天も戦争を憎んでか農作物も実らなくなって、必ず不作の年が生ずるものだ、ということ。
「善なる者は果なるのみ。敢て以て強を取らず」。「善なる者」は良い政治を行うものの意。「果」は果敢・果断の意。この「果」の解釈については異説が多い。「誠実」の意とする説、「済(すく)う」の意とする説、「成果」の意とする説などがある。よい政治を行うものは、政治を果断に行うだけであって、けっして無理に国を強大にしようとはしないものだ、の意。
「果にして矜る勿れ、果にして伐る勿れ、果にして驕る勿れ、果にして巳むを得ざれ、果にして強なる勿れ」。「矜」は自分の業績を誇ること。「伐」は自分の才能を誇ること。第二十二章に「自らを伐らず、故に功有り。自らを矜らず、故に長たり」、第二十四章に「自ら伐る者は功無く、自ら矜る者は長とせられず」とあるのを参照。「驕」は傲慢なこと。「巳むを得ず」とは、やむを得ない必然的な事柄に迫られた時のみ行うの意。
「物壮なれば則ち老ゆ、是を不道という。不道なれば早く巳む」。「壮」と「老」は対語。「壮」は壮年、「老」は老年。「不動」は無為自然の道に反していること。まさに、「奢れる者は久しからず」で、強壮になりすぎたものは、すぐに老衰する。これを無為自然の道にはずれたものという。この三句は第五十五章にも全く同じ表現で見える。おそらく、当時の成語であったと思われる。いったん無為自然の道に反してしまえば、すぐに駄目になり滅び去るだけだ、ということ。

明治書院 老子より



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