概説[編集] 科挙 科挙という語は「(試験)科目による選挙」を意味する。選挙とは郷挙里選や九品官人法などもそう呼ばれたように、伝統的に官僚へ登用するための手続きをそう呼んでいる。「科目」とは現代の国語や数学などといった教科ではなく、後述する「進士科」や「明経科」などと呼ばれる受験に必要とされる学識の課程である。北宋朝からはこれらの科目は進士科一本に絞られたが、試験自体はその後も“科挙”と呼ばれ続けた。 古くは貴族として生まれた者たちが政府の役職を独占する時代が続いたが、隋朝に至り、賢帝として知られる楊堅(文帝)が初めて導入した。家柄や身分に関係なく誰でも受験できる公平な試験で、才能ある個人を官吏に登用する制度は、当時としては世界的にも非常な革新であった。しかし隋から唐までの時代には、その効力は発揮できていなかった。これが北宋の時代になると、科挙によって登場した官僚たちが新しい支配階級“士大夫”を形成し、政治・社会・文化の大きな変化をもたらしたが、科挙はその最も大きな要因だと言われている。士大夫たちは、科挙に合格して官僚になることで地位・名声・権力を獲得し、それを元にして大きな富を得ていた。 建前上、受験資格に制限のない科挙ではあったが、科挙に合格するためには幼い頃より労働に従事せず学問に専念できる環境や、膨大な書物の購入費や教師への月謝などの費用が必要で、実際に受験できる者は大半が官僚の子息または富裕階級に限られ、士大夫の再生産の機構としての意味合いも強く持っていた。ただし、旧来の貴族の家系が場合によっては六朝時代を通じて数百年間も続いていたのに比べ、士大夫の家系は長くても4~5代程度に過ぎず、跡取りとなる子が科挙に合格できなければ昨日の権門も明日には没落する状態になっていた。 科挙の競争率は非常に高く、時代によって異なるが、最難関の試験であった進士科の場合、最盛期には約3000倍に達することもあったという。最終合格者の平均年齢も、時代によって異なるが、おおむね36歳前後と言われ、中には曹松などのように70歳を過ぎてようやく合格できた例もあった[2]。無論、受験者の大多数は一生をかけても合格できず、経済的事情などの理由によって受験を断念したり、過酷な勉強と試験の重圧に耐えられず精神障害や過労死に追い込まれたり、失意のあまり自殺したという鍾馗の逸話など悲話も多い。 科挙に合格して官僚となることは本人だけではなく、当人の宗族にとっても非常に重要な意味を持ち、「官本位」と呼ばれる権力中心の中華王朝社会では一人の人間が官僚となり政治権力の一部となることは本人だけでなくその者の宗族に莫大な名誉と利益をもたらす。そのため宗族は「義田」という共同財産を使い「義塾」を開いて子弟の教育を行って宗族から一人でも多くの科挙合格者を出すことに熱心であった。 宗族の一人が官僚となってやがて政治権力の一部を握ると、有力官僚となった者は宗族に様々な便宜を図り、宗族の為に働くことを期待され、本人もその期待に応えていく。官僚を辞めて地元に戻ったのちも地元の有力者(郷紳)として王朝の官界や地元の官僚へ影響力を行使する。そのため宗族は子弟の一人でも科挙に合格して官僚になれば在任中と引退後を合わせて半世紀は安泰と繁栄を約束された。 科挙は皇帝が直々に行う重要な国事だったため、その公正をゆるがすカンニングに対する罰則は極めて重く、犯情次第では死刑に処される場合もあった。賄賂で試験官を買収した大がかりな不正により、多数の関係者が集団死刑にされた事件などの記録も残っている(zh:戊午科场案)。しかし、それでも科挙に合格できれば官僚としての地位と名声と富が約束されるとあって、科挙が廃止されるまでの約1300年間、厳重な監視にも関わらず様々な工夫をこらして不正合格を試みる者は後を絶たなかった。手のひらに収まるほどの小さなカンニング用の豆本や[3]、数十万字に及ぶ細かい文字をびっしりと書き込んだカンニング用の下着が現代まで残っている。 このような試験偏重主義による弊害は、時代が下るにつれて大きくなっていった。科挙に及第した官僚たちは、詩文の教養のみを君子の条件として貴び、現実の社会問題を俗事として賎しめ、治山治水など政治や経済の実務や人民の生活には無能・無関心であることを自慢する始末であった。これを象徴する詞として「ただ読書のみが崇く、それ以外は全て卑しい」(万般皆下品、惟有読書高)という風潮が、科挙が廃止された後の20世紀前半になっても残っていた。こういった風潮による政府の無力化も、欧米列強の圧力が増すにつれて深刻な問題となっていた。また、太学や書院などの学校制度の発達を阻碍した面を持っていることは否めない。これに対しては、王安石などにより改革が試みられた例もあったが、頓挫した。それ以後もこの風潮は収まらず、欧米列強がアジアへ侵略すると、科挙官僚は“マンダリン”と呼ばれる時代遅れの存在となり、清末の1904年(光緒30年)に科挙は廃止された。一方、科挙は今日の世界で標準試験(英語版)の起源であり[4]、19世紀から欧米は西洋の学問にこのメリット・システムを取り入れた[5]。 歴史[編集] 隋[編集] 科挙は隋の文帝によって始まる。隋より前の六朝時代には、世襲の貴族が家柄によって官僚になるという、貴族政治が行われていた。それまで採用されていた九品官人法は貴族勢力の子弟を再び官僚として登用するための制度と化しており、有能な人材を登用するものとは到底言いがたい存在であった。文帝は優秀な人材を集め、自らの権力を確立するため、実力によって官僚を登用するために科挙が始められた。九品官人法は廃止され、地方長官に人材を推薦させた上で、科挙による試験が行われた。推薦よりも試験の結果に重きを置かれ、官僚の採用が決定されることとなった。 隋代の科挙は、秀才・明経・明法・明算・明書・進士の六科からなり、郷試・省試の二段階であった。隋は二代で滅びるが、科挙はその後、唐に受け継がれた。 唐[編集] 唐では初期に秀才科は廃止され、代わりに進士科が重んじられた。中唐では、進士科は受験者千人に対し、合格者が1~2%、その次に重んじられた明経科では、受験者二千人に対し、合格率10~20%であった。進士科は、当時、士大夫に重んじられた教養である経書、詩賦、策(時事の作文問題)が試験に行われ、合格者は格別に尊重された。進士科合格者は唐代では毎年、30名ほどであった。 最終試験である省試への受験資格を得るために、国子監の管理下にあった六学(国子学、太学、四門学、律学、書学、算学)を卒業するか、地方で行われる郷試に合格する必要があった。省試は吏部の管理下にあったが、開元24年(736年)に礼部に移された。原則として、毎年、行われており、合格者の再試験である覆試もたびたび実施されている。このときに不正が発覚し、試験官が左遷させられることもあった。 受験資格は、当時の他の諸国に比べると、広範囲にわたる。しかし、女性、商工業者、俳優、前科者、喪に服しているものなどは受験が許されていなかった。このため、商人の子弟である李白が科挙を受験できなかったという説がある。 ただし、この時代までは制度の本当の威力は発揮されなかった。何故なら、旧来の貴族層が、科挙の合格者たちを嫌い、なお権力を保ち続けたからである。唐においては、科挙は郷試・省試の二段階であった。しかし、その省試の後、合格者が任官されるために、吏部において、実施される吏部試が行われ、「宏詞科」もしくは「抜萃科」が課せられた。それは、「身」「言」「書」「判」と呼ばれる四項で審査された。「身」とは、統治者としての威厳をもった風貌をいう。「言」とは、方言の影響のない言葉を使えるか、また官僚としての権威をもった下命を属僚に行えるかという点である。「書」は、能書家かどうか、文字が美しく書けるか、という点であり、「判」は確実無謬な判決を行えるか、法律・制度を正しく理解しているか、ということを問うた。そこには、貴族政治の名残りが色濃く見られる。 さらに、省試の責任者は、知貢挙といい、その年の進士合格者は、門生と称し、知貢挙を座主とよび、師弟関係を結んだ。これが後の朋党を生む原因となった。また、人物の評価を考慮した判断が重視されたため、事前運動も盛んに行われ、知貢挙に「行巻」「投巻」という詩文や、再度、「温巻」という詩文が受験者から贈られた。受験者が高官たちにも詩文を贈ることを「求知己」とよばれ、その援助を受けることを「間接」とよばれた。唐代の高官たちは、知貢挙に合格者を公的に推薦することが許され、「公薦」とよばれ、「通榜」という名簿を渡すことも行われている。これは腐敗が入りこむ余地が大きかった。 この問題点については、いずれにしても、宋代に改められることとなった。 なお、唐代では恩陰、任子などとよばれる父の官位に従い、任官される制度もまた、重視され、門閥出身者が優位を占めていた。しかし、中唐以降は、科挙出身者の勢力が拡大し、拮抗しはじめ、次第に科挙出身の官僚が主流を占めることとなった。 宋[編集] 殿試の様子 唐が滅んだ後の五代十国時代の戦乱の中で、旧来の貴族層は没落し、権力を握ることはなくなった。更に、北宋代に入ると宋の創始者趙匡胤の文治政策に則り、科挙に合格しなければ権力の有る地位に就くことは不可能になった。これ以降、官僚はほぼ全て科挙合格者で占められるようになった。また、趙匡胤は科挙の最終試験を皇帝自らが行うものと決めた。この試験は殿試と呼ばれる。殿試の魁選に一甲及第した進士を三魁と呼んだ。状元、榜眼、探花の総称である。殿試の実施によって、科挙に合格した官僚は、皇帝自らが登用したものという感が強まり、皇帝の独裁体制を強めるものとなった。 宋代当初は、受験科目が進士科と諸科に大きく分けられていた。しかし、王安石の行った科挙制度の改革によって、諸科はほぼ廃止されて科目が進士一科に絞られた。本来、進士科は詩文などの才能を問う要素が強かったが、この時より経書・歴史・政治などに関する論述が中心となった。また、初めて『孟子』が受験必修の書として定められた。 この頃、答案が誰の手により作成されたものかを事前に試験官に分からないように、答案の氏名を糊付して漏洩を防止する糊名法や、記述された答案の筆跡による人物判別を防止するため答案を書き改めた謄録法も出現した。呉自牧著『夢粱録』には、南宋における科挙の実施に関する記事が示されている。 王安石の後、司馬光率いる旧法党が政権を握ると更なる科挙制度の改革が行われた。それは、進士科の中に経義を選択するもの(経義進士)とその代わりに詩賦を選択するもの(詩賦進士)が設けられた。 南宋に入ると、官学生や科挙応試者に対する役法・税法上の優免が慣習として成立し、官と民の間に「士人」と呼ばれる知識人階層が形成される。彼らは階層内部での婚姻を重ねる一方、在地における指導者としての立場を形成していく[6]。 宋代の科挙においては、特定地域の出身者に偏らないように、解試レベルでの合格者数が地域ごとに定まっていたが、省試レベルになっていくと、試験官が自己の出身地域に有利な評価を下す事があり、特定の地域への合格者数の偏りを見せる場合もあった。特に南宋期に入るとその弊害が悪化し、福州・温州・明州といった一部の州では合格者数が異常に突出する[7]結果も生み出している[8]。 金・元[編集] 1127年、北宋では前年の解試を受けて省試・殿試が行われる予定になっていたが、金が首都開封を占領したことで中止された(靖康の変)。旧宋領地域を平定するために派遣されていた斡離不を補佐していた劉彦宗の提言によって、1128年に科挙の続きを実施した(趙子砥『燕雲録』建炎2年戊申正月条)。遼では989年以来、漢民族などを対象に科挙が実施されており、劉彦宗自身も元は遼の進士であった。斡離不・劉彦宗は相次いで没するが、その後を継いだ粘没喝も1129年と1132年に科挙を実施し、その後熙宗によって1135年に科挙を実施されている。こうした措置は遼の主要領域を占領した直後の1123年にも実施されており、新たな占領地を統治するための人員を確保するとともに漢民族知識人を引き留める効果があったと考えられている[9]。金では1138年に科挙が3年1貢の正式な制度として採用され、1149年にはそれまで実施されていなかった殿試も採用されるようになったが、金が公的な教育機関の整備に動き出したのは12世紀後期に入ってからで、また南宋のような士人に対する特権はほとんど認められず、科挙に合格しない限りは庶民と同等に扱われていた。世宗の即位後、従来の地方官吏から試験による中央登用を停止し、学校を整備して科挙登用を増やす政策を採用した。また、女真族の軍事組織であった猛安・謀克の形骸化によって官途に就く道が閉ざされる形となった女真族を救済するために、女真族のみを対象とした女真進士科(後に策論科)・女真経童科なども実施された。だが、モンゴル侵攻を目の当たりにした宣宗は実務に長けた官吏の中央への登用を進めたため、官吏出身者と進士出身者の対立を引き起こすことになった[10]。なお、金の科挙受験者はもっとも多かったとされる13世紀初めでも多くて4万人程度と、40万人に達したとされる南宋に比べて大幅に少ない。だが、金の領域に入った地域は元々科挙が盛んではなかった(北宋時代には2万人前後の受験者しかいなかった)こと、金が人士への特権を認めなかったこと(反対に南宋のような特権目当ての受験者がいなかったこと)、金の人事制度が官吏からの中央への登用が比較的容易で科挙一辺倒ではなかったことなど、金と南宋の制度的な違いによるところが大きい[11]。 元では、1313年まで科挙が実施されなかった。これはモンゴル帝国の旧金領地域進出からみれば100年余り、遅れて征服された旧南宋地域でも30年以上行われなかったことによる。従来、そうした状況をもって「士大夫の立身出世への道は絶たれた」「モンゴル支配下の漢民族知識人の不遇」とみなされてきたが、実際にはさまざまな人材登用ルートが存在しており、漢民族の知識人(人士・士大夫)もそうしたルートを介して登用されていた。大きく分けると官吏・兵士・儒戸として出仕してその功績によって中央に転じる者、縁故・猟官によってモンゴル人王侯などの有力者に推挙される者(王侯の幕僚として出仕した後にその推挙を受ける例もある)、国子監・翰林院・司天監などの国家の教育機関で能力を認められて登用される者などがあり、科挙復活後もそうしたルートによって出仕する事例が多く存在した[12]。だが、元代の科挙の1回の定員は100名で、しかも蒙古人・色目人・漢人(旧金領漢民族及び女真族・契丹族・渤海族)・南人(旧南宋領漢民族)で1/4ずつ分けられており、元代全てを通じた合格者の総数は1000人あまりであった。ところが、科挙合格者は、成績によって従六品から従八品までの品階を与えられるなど、当時としては破格の待遇を受けた。しかも、科挙実施と同時に従来の官吏出身者の昇進の最高を従七品までに制限された(ただし、この規定が科挙復活以前の登用者にも適用されたことから問題視され、1323年に正四品に引き上げられた)。科挙の及第によって官僚を目指すことはメリットとデメリットの両方があり、必ずしも他のルートに比べて優位とは言えなかった。当時の知識人は数ある人材登用ルートから科挙を選ぶか、他のルートを選ぶかを選択していたと考えられている[13]。 明・清[編集] 1894年の会試の題目 明代に入り、科挙は複雑化した。科挙の受験資格が基本的に国立学校の学生に限られたために、科挙を受ける前に、童試(どうし)と呼ばれる国立学校の学生になるための試験を受ける必要があった。一方で試験内容も四書を八股文という決められた様式で解釈するという方法に改められた。試験科目が簡便なものになったことによって貧困層からも官僚が生まれるようになった反面、形式重視に陥ってしまい真の秀才を得られなくなってしまうという弊害も発生した。 詳細は「八股文」を参照 清代に入っても、この制度は続いた。また、挙人覆試や会試覆試といった新たな試験制度が追加されたことで、更に試験の回数が増えて複雑化した。このように科挙の試験形態が一貫して複雑化し続けた背景には、試験者の大幅な増加、豆本の持ち込みや替え玉受験などの不正行為の蔓延ということが挙げられる。しかし、このことは結果的に、そのシステムの複雑化から制度疲労を起こし、優秀な官僚を登用するという科挙の目的を果たせなくなるという事態を招いた。 だが、1840年(道光20年)のアヘン戦争以後は西洋列強が中国を蚕食するようになり、日清戦争後には本格的に近代化が叫ばれるようになっていった。そしてついに、清朝末期の1905年(光緒31年)に廃止された。 科挙が、中国社会においては一般常識そのものとされた儒学や文学に関して試験を行っている以上、その合格者は中国社会における常識を備えた人であると見なされており、その試験の正当性を疑う声は少数であった。逆に元朝初期に科挙が行われなかった最大の理由は、中国以外の地域に広大な領域を持っていた元朝にとって見れば、中国文化は征服先の一文化圏に過ぎないという相対的な見方をしていたからに他ならない。 元朝と同じく征服王朝である清朝においても漢人科挙官僚を用いたのは旧明領の統治のみであり、それは同君連合である清朝が明の制度をそのまま旧明領に用いたためである。漢人科挙合格者で清朝の第一公用語で行政言語である満洲語と満洲文字を学ぶことを許され、中央政治に参加できたのは状元と榜眼のみであり他の漢人科挙官僚は学ぶことを禁止されていた。 満洲人は基本的に武官(八旗)であり、科挙を受けて合格すれば文官になれたが、漢人よりも課題が緩和されており優遇されていた。また皇帝から直接指名を受ければ科挙を受けなくても官僚になることができた。 清朝末期に中国が必要としていた西洋の技術・制度は、いずれも中国社会にはそれまで存在しなかったものばかりであり、そこでの常識だけでは決して理解できるものではなかった。中国が植民地化を避けるために近代化を欲するならば、直接は役に立たない古典の暗記と解釈に偏る科挙は廃止されねばならなかったのである。 時の清政府の留学促進政策及び日本明治政府の積極的な招致が大きく関係している。戊戌の政変、義和団の乱、八国聯軍の侵略等、国内外においてダブルパンチを受けていた清政府は、その政権維持のため、新政措置を取った。そのうちの一つが、日本の明治維新を手本にすることであり、積極的に学生たちの日本留学を推し進め、奨励規程の公布まで行なった。特に、1905年の清政府による科挙制度の廃止も大きく影響し、多くの知識人が留学の道を選び、相次いで日本へと旅立った。 太平天国[編集] 太平天国も科挙を行った。特筆すべき点は、それまで受験資格のなかった女性に対して科挙を行ったことである。1851年に行われたこの科挙は、「惟女子与小人為難養也」をテーマとした論文を書かせるもので、200人余りが受験し、傅善祥が状元となった。しかし、その後まもなく太平天国は崩壊し、女性のための画期的な科挙はこの1度限りで終わった。 試験区分[編集] 文科挙[編集] 清代科挙試験の一覧表 童試[編集] 考場の内部 貢院の号舍の模型 童試とは、科挙の受験資格である国立学校の学生になるための試験である。童試を受ける者は、その年齢にかかわりなく、一律に童生(どうせい)、あるいは儒童(じゅどう)と呼ばれた。 童試は3年に一回、旧暦2月に行われ、順に県試・府試・院試の3つの試験を受ける。県試は、各県の地方官によって行われる。県試に合格したものは、その県を管轄している府の府試を受ける。府試は、各府の地方官によって行われる。さらに府試に合格したものは、皇帝によって中央から派遣された学政による院試を受ける。この院試に受かったものは生員となり、晴れて秀才と呼ばれ、国立学校への入学資格を得て、士大夫の一部とみなされるようになる。 童試は唐代のころから童子科として存在しており、唐代は10歳以下、宋代は15歳以下が対象となっていたようであり、及第者には解試免除や授位などがなされた。ここで特筆すべきは、南宋の時代に女童子の求試が2度もあったことであり及第者も誕生している。 科試・歳試 歳試とは、国立学校に入学した生員が受験する試験であり、3年に一度行われる定期学力試験である。成績優秀者の場合は地方官などに任命されることもあったが、成績不良の場合には停学もしくは生員たる資格を剥奪され退学処分を課せられる場合もあった。科試はこれに対して、科挙本試験の郷試を受けるための予備試験であり、受験者の数を絞ることが目的である。合格すると郷試の受験資格が与えられ、同時に生員から挙子と呼ばれるようになる。合格人数は次の郷試の会場である貢院(こういん)の余裕に合わせて決定され、おおむね郷試合格者の100倍程度の生員が合格した。 郷試[編集] 童試が国立学校の学生という科挙の受験資格を得る為の試験であるのに対し、郷試は科挙の本試験であり、その第一の関門となる試験であり、その試験倍率はおおむね80から100倍程度で推移していた。 郷試は3年に1度、子年、卯年、午年、酉年毎に実施されることが法令で定められていた。その期日もあらかじめ指定されており、具体的には、8月9日に第1試験、8月12日に第2試験が、8月13日に第3試験が実施される。第1回の試験では四書題3問と詩題1問の試験が課され、第2回の試験では五経題5問が課され、第3回の試験では策題という政治論文が課された。なお、この3年に1度の試験の他に、恩科と呼ばれる臨時の試験が存在した。これは、宮中に大慶事(例えば天子の即位等)が発生した際に特別に1回増加された科挙の試験のことである。 試験は各省の省都にある、貢院で行われた。貢院とは科挙試験を行うための施設で、内部には「号舎」と呼ばれる、入り口に扉の無い[14]、インターネットカフェの個室程度の大きさの個室が無数に集まっており、それが長屋状に連続していた。そして、貢院の内部の大通りは「甬道」、小道は「号筒」と呼ばれた。 全3回の試験は、各々3日間掛けて行われ、各回共に1日目は丸1日が受験生を入場させるために用いられ、2日目の早朝に問題が発表される。そして、3日目の朝までが回答時間として与えられ、3日目の夕方までに答案を提出する事になっていた。この流れを3回繰り返し[15]、試験は終了となる。[16] 受験生たちは、まず見張りの兵士によって所持品検査と、前もって作成された受験票に書かれた本人かどうかの本人確認を受ける。見張りの兵士が受験生のカンニングを見逃した場合には処罰の対象となり、カンニングを摘発した兵士には報償金が与えられることになっていた。[17]そして、所持品検査を終えて入門を許された受験生は一人ずつ号舎に入れられ、試験が終了するまで三日間、号舎から出ることを禁止された[18]。貢院の門はいったん閉められると、試験が終了するまでいかなる理由があっても開かれることはなかった[19][20]。試験はほぼ徹夜で行われ、1畳程の狭い空間の中で回答しなければならない。しかも、部屋にカーテンは掛けているとは言え、外からは容赦なく夜風や雨が吹き込む。悪天候の場合などには身をもって答案を守らなければならない。それ故に回答中に急病になったり精神に異常をきたしてしまう受験生も多く、亡霊の祟りを見るなどの数多くの逸話がある。 郷試の採点は、公正を期すために様々な工夫がなされていた。まず、先述した3回試験制もその一つであり、合格者の決定においては3回の試験の平均点より決められ、答案の氏名欄には糊付けがなされ、採点官が見ることができないように覆われた。加えて本答案を採点することはなく、名前を伏せ受験番号のみ記載した答案の写しのみを採点官は見て採点を行った。そして、合格者決定後に初めて糊付けを外し名前が公開される仕組みになっていたのである。 郷試に合格した者は挙子から挙人と呼ばれるようになり、次の会試受験資格が与えられたほか、生員と同様に官職に任命されることがある。また、試験を受けて合格しなければ資格を失う挙子とは異なり、挙人の資格は終身にわたるものであった[21]。 郷試の試験は先述のように非常に倍率も難易度も高いため、高齢者が試験に参加することも多かった。このため、70歳以上の受験生に関しては合格点に満たない場合でも定員外の形で合格し挙人の資格が与えられた。[22] 挙人覆試[編集] 清朝期に新たに加えられた試験区分。事前に志願者をふるい落とし、会試の試験会場である北京貢院の混雑を避けるために設置された。会試の1ヶ月前(2月15日)に行われた。北京近郊の者に対しては、これもまた混雑の防止が目的であるが、前年の郷試の直後の9月に実施された。出題内容は四書題1問、詩題1問。成績は5等に分けられた。1~3等の者は会試を受ける権利を与えられ、4等の者は一定期間会試受験の権利が停止され、5等の者は挙人の資格が剥奪された。なお、会試は天子が行う崇高な行事とされていたので、受験者は公費で北京に赴くことができた。 会試[編集] 隋代からある試験区分。貢挙とも呼ばれる。郷試とならび重要な試験で、科挙試験の中核を成す。挙人が受験することができ、合格すれば貢士の呼称を得る。貢士は、資格上は挙人と同等。清代末期における受験倍率は、100倍近くになることもあった。郷試の翌年の3月に、北京の貢院にて実施され、頭場、二場、三場、の3回、それぞれ2泊3日の期間で行われる。唐代においては、続く試験、殿試がなかったため、この会試に合格すれば直ちに進士の資格を得ることができた。また、清代においても、殿試はほぼ全員が合格するのが慣例であったため、貢士の呼称を得た挙人を早々に進士と呼ぶことさえあった。会試に合格した貢士のうち、成績が一番目の者を会元(かいげん)、二番目の者を亜魁(あかい)、六番目の者を榜元(ぼうげん)、一番目~十八番目までの者を会魁(かいかい)、最下位の者を殿榜(でんぼう)、と呼んだ。[23] 会試覆試[編集] 清朝の乾隆帝の時代に新たに加えられた試験区分。期日は4月16日、会場は殿試と同じ紫禁城の保和殿。試験内容は四書題1、詩題1。学力の再確認、殿試にむけた試験会場の場慣れ、替え玉受験の防止のための本人確認を目的とした殿試の予備試験的なもの。そのため試験はかなり平易なものが作成された。成績は4等に分けられ、1〜3等の者は会試を受ける権利を与えられ、4等の者は一定期間殿試受験の権利が停止された。 殿試[編集] 殿試とは、進士に登第(合格)した者が、皇帝臨席の下に受ける試験をいう。すでに進士の地位はあるが、この試験により順位を決め、後々の待遇が決まってくる。上位より3名はそれぞれ状元、榜眼、探花と呼ばれ、官僚としての将来が約束された。古来より「進士は月日をも動かす」と言われ、巨大な官僚機構の頂点に立つ進士は一族も含めて多大な栄華を極めたのである。 詳細は「殿試」を参照 ※ 郷試、会試、殿試の全ての試験において首席だった者を三元と呼ぶ。これは、各試験での首席合格者を郷試で解元、会試で会元、殿試で状元と呼んだことに由来している。麻雀の役である大三元は、ここに由来している。また、同じく麻雀の役である四喜和の四喜にも第4の喜びとして科挙合格が含まれている。 武科挙[編集] 中国においては、政治と軍事は車の両輪に例えられ、この2つがうまくかみ合って国家は安定すると考えられていた。このため、軍人を採用する科挙も存在し、この試験を武官を採用する試験として武科挙(武挙、清代には武経と呼ばれた。)と呼ばれていた。対し、一般的に言われている文官登用試験は対比して文科挙といわれる。 武科挙 文科挙と同様に武県試・武府試・武院試・武郷試・武殿試(皇帝の前でおこなわれ学科のみ)の順番で行われ、最終的に合格した者を武進士と呼んだ。試験の内容は馬騎、歩射、地球(武郷試から)と筆記試験(学科試験)が課された。 馬騎 - 乗馬した状態から3本の矢を射る。 歩射 - 50歩離れた所から円形の的に向かって5本の矢を射る。 地球 - 高所にある的を乗馬によって打ち落とす。 その他 - 青龍剣の演武や石を持ち上げるなど。 矢の的に当たる本数と持ち上げる物の重さが採点基準となる。学科試験には、武経七書と呼ばれる『孫子』、『呉子』、『司馬法』、『三略』、『李衛公問対』などの兵法書が出題された。しかし、総外れもしくは落馬しない限りは合格だったり、カンニングもかなり試験官から大目に見られたりと文科挙とは違う構造をしていた。また伝統的に武官はかなり軽んじられており[24]、同じ位階でも文官は武官に対する命令権を持っていた。 その他中国の科挙[編集] 制科[編集] 制科とは、普通の科挙では見つけられない大物を官僚に採用するため、天子の詔で不定期に実施された試験である。隋代から始められ、唐・宋時代にも行われた。清朝の1678年にも行われた記録がある。しかし、乾隆期以後は制科は著しく廃れることとなった。 科挙出身の官僚は制科出身の官僚と派閥争いを行ったが、人数が圧倒的に多い科挙出身の官僚が優位に立った。