人々は栄誉を受けては驚き、恥辱を受けては驚き、また身に大患を与えるはずのものを身を尊ぶのと同様に尊んでいる。では何を栄誉を受けては驚き、恥辱を受けては驚くというのであろうか。人々は栄誉を上とし恥辱を下としている。そしてこれらを受けても驚き、これらを失っても驚くのである。これを栄誉を受けては驚き、恥辱を受けては驚くというのである。では何を身に大患を与えるはずのものを身を尊ぶのと同様に尊んでいるというのであろうか。自分に大患があるのは、自身が存在するからである。自身が存在しなければ、いったい何の患いがあろうか。したがって自身を大切にするのと同様に天下を治めようとする者にこそ天下を託すことができるのである。また自身を愛するのと同様に天下を治めようとする者にこそ天下を託すことができるのである。


Exceed hating shame mind.
 

People surprise to get the honor ,to feel shame and are thankful which brings evil as if it brings happiness. Why they surprise to get honor or to feel shame ? They treat honor is good, bud shame is bad. They surprise both to get it and to loose it.This called surprise of getting or loosing honor. Why they feel thankful which brings evil as happiness ? The reason why one has evil is the presence of oneself. If it is no presence of oneself,there is no evil. So,we can trust to govern whole of coountry whom takes care it same as self life loves it same as oneself.

この章は、人々が栄誉や恥辱に一喜一憂しているが、もっと根本的なところに目を向け、其の自我を見出し、自身を大切に思うように他をも大切にする心を持つことが肝心だと述べている。それができる人物にこそ、天下を託すことができると言っているのである。「狷恥」とは恥辱を嫌うということで、そんな恥辱を嫌うことを超越せよ、という意味でタイトルとしている。

「寵辱驚くが若く、大患を貴ぶこと身の若し」。「寵辱」の「寵」は寵愛を受けること、「辱」は屈辱を受けることで、栄誉と恥辱のこと。「大患」とは、災いとなるもの。前章の「五色・五味・五音」など、身に災いをもたらすもののこと。ここは、主語を聖人とし、「聖人は世間の栄誉や恥辱に対してびくびくと慎重な態度を取り、世間の身に災いをもたらす財貨などに対して自身の身を貴ぶことと同程度のものと考える」とする説もあるが、ここでは主語を人々とし、「人々は栄誉を受けては驚き、恥辱を受けては驚くといったように、世間のつまらぬ価値観に左右され、また、身に災いとなるようなつまらぬ財貨なども吾が身を貴ぶように大切にしている」という意にとった。

「何をか寵辱驚くが若しと謂う。寵を上と為し辱を下と為す。之を得ては驚くが若く、之を失い手は驚くが若し。是を寵辱驚くが若しと謂う」。では、一体何を栄誉を受けては驚き、恥辱を受けては驚くというのであろうか。これは前文の「寵辱驚くが若く」の説明の部分である。「上」は貴い・優れたの意。「下」は賤しい・劣ったの意。「之を得ては」の「之」は「寵」を指す。栄誉を貴いものと考え、恥辱を賤しいものと考えている。そして、栄誉を得ても驚き、恥辱を受けても驚くといったように、このようなつまらぬものに拘っている以上は、その狂気からは逃れられないのである。

「何をか大患を貴ぶこと身の若しと謂う。吾の大患有る所以の者は、吾身を有とするが為なり。吾身を無とするに及びては、吾何の患いか有らん」。これも前文の「大患を貴ぶこと身の若し」の説明である。何を身に災いとなるようなつまらぬ財貨なども吾が身を貴ぶように大切なものとしているというのであろうか。自身の身に災いが起こるのは、自身というものが存在するからなのである。もし自身というものが存在しなければ、何の災いも生じないのである。「身を有とす」とは、「自身の身体が存在すること」、「身を無とす」とは、「自身の身体が存在しないこと」である。つまり、自分の身体を無きものと仮定したならば、つまらぬ財貨などを貴ぶこともいかに空しいことかがわかる、と言っている。

「故に貴ぶに身を以てして天下を為むる者には、乃ち以て天下を託すべし」。同様に、道理をわきまえた上で、真に自身の身を愛するのと同じように天下を治めようとする人物には、安心して天下を託すことができるのである、ということ。

 
明治書院 老子より