魂を囲んでいる肉体に乗り、心に道を抱いて、そこから離れることの無いようにするのが良い。気を専ら養い、柔弱であること赤子のようであるのが良い。心を洗い清めて過ちのないようにするのが良い。人民を愛し、国を治めるのに無為の立場でいるのが良い。万物の変化に対応するのに雌のように従順であるのが良い。あらゆる事柄に通じていながら、愚者のようであるのがよい。道は万物を生じ、養う。万物を生じさせながら自分のものとはせず、あらゆることを行いながら、その功をあてにせず、万物を成長させておきながら、支配することがない。これを道の深奥な徳というのである。


Nothing to do.

Ride on the body covering the spirit, hold taoism humanity virtue in your mind, it's better never far apart form it. It's better to cultivate spirit and to be weak and soft like a baby. It's better to wash up your mind clean and take few mistakes. It's better to love people and nothing to do to govern nation. It's better to adopt every change like a female's obediently. It's better to be like foolish man even if you know everything well. The taoism humanity virtue born everything and bring up. Never own oneself if you born everything , never rely on the meritorious even if you do all thing,never control every thing even if you grow up all. This called very deep virtue.

この章の「能為」は本文中の「能く無為ならん」の略と思われる。無為自然の道を体得した聖人の深奥な徳のあり方を説いている。

「営魄に載り一を抱いて、能く離るること無からん」。「営魄に載り」の解釈については諸説がありはっきりしない。原文は「載営魄」であるが、この「載」を「故」の借字とし、前章の末尾に接続させ、「天の道なるかな」とし、本分を「営魄一を抱いて」とする説。「営魄」は「熒魄」(迷える魂)と同義とし「載」を満ちるの意とし、「人生が迷える魂に満ちている」とする説。「営魄」は「熒魄」(生き生きとした肉体)と同義とし、「載」を乗るの意とし、「生き生きとした肉体に乗る」とする説。など多数の説がある。ここでは、「営魄」の「営」を「とり囲む」の意とし、「載」は「乗る」の意として、「魂をとり囲んでいる肉体に乗り」の意とした。「一」は道のこと。第二十二章に「是を以て聖人は一を抱き、天下の式と為る」とあり、第三十九章に「昔は之れ一を得る者ありき、天は一を得て以て清く、地は一を得て以て寧(やす)く、・・」とあり、「一」が「道」を指していることは明白である。つまりこの一文は、魂をとり囲んでいる肉体に乗って、道というものを心に抱いて、その道から離れないようにするという意。

「気を専らにして柔を致して、能く嬰児たらん」。「気」は一種の生命エネルギーで、現在の「気功術」でいう「気」である。これは独特の呼吸法で、気功術は道家の影響を多大に受けており、その淵源をたどると「老子」に行きつくものもある。この気を専ら養うように心がけ、心身の柔弱さをひたすら目指し、ちょうど嬰児が全てに柔弱であるようにせよ、というのである。嬰児は水と同じく、老子が無為自然の大道に最も近い存在として評価しているものである。

「玄覧を滌除して、能く疵無からん」。人民を愛し、よく国を治めながらも、それと知られることなく、無為自然の立場にいられるのがよい、ということ。第五十七章にも「我無為にして民自ずから化し」という同様の議論がある。

「天門開闔して、能く雌たらん」。「天門」は「女性の生殖器」とする説、瞑想に入るための呼吸法にかけて「鼻」とする説、「心と関連させて心の働きの根源とする説など、難解な箇所であるが、ここでは「女性の生殖器」をもとにして、「万物を生み出す根源」の意とした。「開闔」は開くことと、閉じること。つまり万物が生滅変化すること。万物を生み出す門が開閉するとき、すなわち万物が生滅変化するときに、女性のように従順であるのがよいということ。

「明白四達にして能く無知ならん」。「明白」は明らかな事。「四達」はあらゆる方向に達すること。あらゆる方面に明らかに通暁していながら、何も知らない愚者のようであるのがよい、ということ。

「之を生じて之を畜い、生じて有せず、為して侍まず、長じて宰せず」。この部分は第五十一章にほとんど同じ表現が見える。それゆえ、五十一章の錯簡とする説もある。「之」は万物を指す。「畜」は養う・育てるの意。「長」は成長させるの意。「宰」は主宰する・支配するの意。道は万物を生ぜしめ育て上げる。生ぜしめながら所有しようとはせず、事を行いながらその功績をあてにせず、万物を成長させながらそれを支配しようとはしない、という意。

「之を玄徳と謂う」。「玄徳」は深遠な徳の事。前文の様なことができることを、深奥な徳というのである。

 
明治書院 老子より