世間で一般に守るべきだと考えられている道というものは、恒常不変の真の道ではない。世間で一般に正しいと考えられている名というものは、恒常不変の真の名ではない。天地開闢の以前には、名などはなかった。万物の母である天地が創造されて初めて名というものが起こったのである。だから天地開闢以前の根源的な無の状態の時は、私の言う「道」の微妙な働きが観察され、この根源的に同じものを発生させる働きをするもののことを「玄」という。「玄」のさらに奥深い「玄」こそすべての微妙な現象を生み出す門なのである。

Mastering the origin of humanity virtue.

The humanity virtue which believed in whole of the country is not ture parmanent unchangerable humanity virtue. The name which believed in whole of the country is not true parmanent name. Before the universe creation there was no name. After creation of heaven and ground mother of everything, the names occured for the first time. So befor creation of heaven and ground there was thin sensitive power which I call the humanity virtue, basically same system creating every thing which called Gen means origin. The deep inside of Gen is the gate where every sensitive things brings from.

この章の「体動」とは、根源的な道を身に体する、すなわち道を体得するという意味であろうが、道の玄妙な働きを理解すべきであることを述べている。

 そもそも「老子」という書物は難解である。その中でもこの章はとりわけ難解である。解釈の仕方も何通りもあり、ここに掲げた解釈はその内の一つにすぎない。また、この章は竹内義雄「老子の研究」によれば、第五句「故に常無は以て其の妙を観んと欲し」以下が後人の手によって付け加えられたものとし、それゆえ文章がつながらないと指摘する。ともかくも、このままを原文と見なして考察すると、この第一章は「老子」八十一章全体の考え方を端的に表している冒頭文として位置付けられる。(もっとも馬王推古墳で発掘された「老子」では後編の冒頭、第四十五章となっているが、全体のまとめ的な意味合いには変わりがない。

 「道の道とすべきは常道に非ず」。この章で最も問題になるのは、常道と言う語をどのように解釈するかということである。大きく2つの意見に分かれる。すなわち、「常道」を肯定的にとらえるか、否定的にとらえるかという点である。肯定的にとらえると、「道の道とすべきは常道に非ず」は「世間で言われる(特に儒家の主張する)道というものは、老子の主張する恒常不変の無為自然の道ではない」という意味になり、「常道」こそが真の道であることになる。逆に否定的にとらえると「真の道というものは常に変化を続けて捉えることができないもので、恒常不変の道などというものは真の道ではない」という意になり、「常道」は老子の主張する道とは程遠いということになる。まったく逆の意味になる訳だが、ここでは一応前者の説を採用した。

 「名の名とすべきは常名に非ず」。「名」とは事物の名称のことで、ここの「常名」も「常道」と同様に解釈が大きく二つに分かれる。事物に与えられた名称は、名称として与えられた瞬間、その事物そのものを指すことができなくなる。恒常不変の「真の名」は名称を与え得ないものなのである。

 「名無し、天地の始めには。名有れ、万物の母にこそ」。万物の根源たる「道」から万物が生ずるが、その生ずる以前の形而上的状態の時には、名称などなかったのである。そして「万物の母」である「天地」という巨大な陰陽の二気が交わり、万物が生じて後、万物に名称が与えられるようになったと言っている。「名」を名声・名誉の意に取る説もあるが、それでも通じる。

 「故に常無は以て其の妙を観んと欲し、常有は其の微を観んと欲す」。前述したように、「故常無」以下は問題の箇所であるが、「常無」・「常有」は「常道」・「常名」と同じく、老子の理想と見なす状態を示す語と考えるのが妥当であろう。「妙」は微妙深遠なこと。「微」は明白なこと、すなわち万物がはっきりと識別できる状態の事。

 「此の両者同じきょり出でて名を異にす」。この「両者」が何を指すのかも意見が分かれる箇所である。「無と有」を指す、「始と有」を指す、「妙と徹」を指すなどの説があるが、ここでは「天地と万物」を指すと見る。

 「同じきもの之を玄と謂う。玄の又玄、衆妙の門」。老子は「道」を様々な言葉で定義しているが、この章では「玄」という言葉で定義している。「玄」とは本来「黒く染めた糸」のことであるが、ここは「道」の深奥であることを説明している。未分化でどろどろとした、暗くとらえどころのない混沌たる状態を「玄」と呼ぶが、さらにまたそれより「玄」なる状態(玄の又玄)から微妙な現象が生み出されるというのである。

 

明治書院 老子より

體道第一

道可道、非常道。名可名、非常名。無名天地之始、有名萬物之母。故常無欲以觀其妙、常有欲以觀其徼。此兩者同出而異名。同謂之玄。玄之又玄、衆妙之門。

みちみちとすべきは、つねみちあらず。とすべきは、つねあらず。きはてんはじめにして、るは万物ばんぶつははなり。ゆえつねもっみょうんとほっし、つねもっきょうんとほっす。りょうしゃおなじきよりでてことにす。おなじくこれげんう。げんまたげんは、衆妙しゅうみょうもんなり。

  • 道 … 宇宙万物の根源としての存在。
  • 可道 … 道としての働きをする。ここでの道は、儒家でいう道徳的な道。
  • 常道 … 永遠不変な道。
  • 名 … 名前。
  • 常名 … 永遠不変な名。
  • 妙 … 不思議な働き。
  • 徼 … こまかに微妙なこと。
  • 玄 … 幽遠なさま。
  • 玄之又玄 … 幽遠なものの、そのさらに幽遠なところ。
  • 衆妙 … 宇宙のあらゆる現象をうみ出す微妙な根源。