大きな川や海があらゆる谷川の王となれる理由は、大きな川や海があらゆる谷川に対して低い位置にいるからである。それゆえ、あらゆる谷川の王となれるのである。こういう訳で聖人は人民の上に立とうと思えば、必ず言葉を卑しくして人民にへりくだるのである。また、人民の先を行こうと思えば、必ず自分の身を人民より後ろに置くのである。こういう訳で聖人は、人民の上に立っても、人民は重圧に感じないのである。また、人民の前にいても、人民は障害に感じないのである。そこで世の人民は喜んで聖人を押し戦いて、少しも嫌に思わないのである。聖人が争うことがないから、世の中で聖人と争える者はいないのである。

Stay back of people.

The reason why the big river and sea can become a king of all is staying low position to all river and sea, therefor they can become a king of all. For those the saint uses vulgar expression to himself when he wants to stand upon people, and he staies himself back to people when he wants to go ahead to people. Therefore people never feel pressure if saint stands on them and never feel obstacle if saint goes ahed them. So people never feel hate if they support and fight with saint. The saint never compete with nobody there is nobody who can compete with the saint.

この章は、水をたとえにして老子の思想の大きな柱である「不争謙下」の徳を為政者たる聖人は持つべきであると述べている。民の上に立とうとしたなら民より低い位置を目指し、民より前にあろうとしたら民の後ろにあることを目指せ、という老子一流の逆説がここでも用いられている。「後巳」というタイトルも、「自己を民の後ろに置け」ということで、本章の内容によく合致している。

「江海の能く百谷の王たる所以の者は、其の善く之に下るを以ってなり」。「江海」は、大きな川や海。「江」は本来は揚子江、もしくはその支流を指すが、ここでは単に大きな川の意と考えられる。「百谷」は、あらゆる谷川の意。大きな川や海が、あらゆる細い流れである谷川の上位の支配者的な立場にいることができるのは、谷川が、源流という地理的に高い場所から流れ下り、その最終的な最も低い場所に、その居場所を定め、決して谷川より上の位置を目指さないからである、ということ。

「故に能く百谷の王と為る」。常にあらゆる谷川より低い位置を目指しているので、谷川がその徳を慕って、「江海」が「百谷」を取り締まる主導的立場に立っていられるのだ、ということ。

「是を以って聖人民に上たらんと欲せば、必ず言を以って是に下る」。以上のような理由で、道を体得した聖人は、人民を治める主導的な立場に身を置こうと思ったなら、決して驕り高ぶったりせず、必ず言辞を低くしてへりくだった態度で人民に接しようとする。すなわち、そうすることによって人民は聖人の存在をあまり意識せず、逆にその徳を慕うことになる、ということ。

「民に先んぜんと欲せば、必ず身を以って之に後る」。同様に、人民より先に立とうとしたならば、決して人民を押しのけて先頭に立とうとはせず、必ずその身を人民の後尾に置いて控えめな態度で人民に接するのだ、ということ。

「是を以って聖人上に処るも民重しとせず」。こういうわけで、聖人が人民を主導する上の地位に身を置いていても、常にへりくだった態度で聖人が民に接するので、人民は聖人の存在を重圧には感じることがない、ということ。

「前に処るも民害とせず」。同様に、聖人が人民の先頭に位置を占めていても、聖人が民の後ろに身を置こうと心がけているので、人民は聖人の存在を邪魔な障害とは考えない、ということ。

「是を以って天下楽しみ推して厭わず」。そのような状態になれば、天下の人々は、その生活を楽しみつつ満喫することができ、聖人を指導者として押し戴いて、少しも嫌な存在だとは思わないのだ、ということ。

「其の争わざるを以っての故に天下能く之と争う莫し」。聖人は、人民より下の位置を目指し、人民より後ろの位置を目指すので、上に立とう、前に行こうと争うことは決してしない。争うという意思がないから、世の中で聖人と争うことができる者はいなくなるのである、ということ。

明治書院 老子より