昔のよく道を体得した者は、道で人民を聡明にしようとはせず、道で人民を愚かにしようとした。人民が治めにくいのは、人民に知恵が多いからである。知恵で国を治めようとすれば、国を損なうこととなり、知恵で国を治めなければ、国に幸いをもたらすのである。この二つのことを知るということも政治の方式である。常に政治の方式を知っていること、これを深奥な徳というのである。深奥な徳は、深くてまた遠い。この深奥な徳は物事と相反しているように見えるが、実は道の大きな道理に従っているのである。

Simple and pure virtue.

Ancient master of humanity virtue taoism wanted to make people foolish not inteligence. The reason why diffivcult to govern people is people have many inteligence. To govern nation by intelligence it harm nation,not to govern it brings the happiness to the nation. It is also political way to know these two act. Always knowing how to politics , it is deepest virtue. The deepest virtue is deep and far away. This deep and far away virtue seems opposite to things but it allows big theory of humanity virtue taoism.

この章は、道を体得した聖人が国を治める場合、自身はもちろんのこと、人民にも決して世俗的な知識を持たせないようにするという方策をとると述べ、世俗的な知識の排除を主張している。「淳徳」というタイトルも、世俗的な知識とは無縁の「純朴な徳」を目指せ、ということで、本章の内容に合致している。

「古の善く道を為むる者は、以って民を明らかにするに非ず」。昔の無為自然の道を体得した人物は、人民に知識を授けて聡明にしようなどとは考えなかった。つまり、世俗的な知識や、それを身につけることによって得られる聡明さは、道を損なう元凶であるので、人々の上に立つ、道を体得した為政者は、徹底的に世俗的な知識を排除してきた、ということ。

「将に以って之を愚にせんとす」。逆に、人民を「愚」にしようと努力した。ここでいう、「愚」とは、現在用いられている、いわゆる「愚民政策」ということではなく、第二十章に「我は愚人の心なるかな、沌沌たり」とあるように、世俗的な知識を排除した、老子が称えるところの道に合致した「愚」ということである。つまり、真に道を体得した人物は、一見愚者のように見えるが、実はあらゆることを成し遂げ得る人物だ、という議論と同じである。世俗的な知識を身につければ、世俗的な意味での聡明さは得られるが、それは道からどんどん離れていく方向性を持つので、逆にそんな知識はあっさり捨て去り、大いなる愚者を目指させるべきだ、ということ。

「民の治め難きは、其の智の多きを以ってなり」。人民が治めにくいのは、人民に世俗的な知識が多すぎて、道から乖離していくためである。人民に知識が多いので治めにくい。しからばその知識を取り去るにはどうすればよいのか。それには、上に立つ者がことさらに政策を振りかざすことのないようにするのがよい。つまり、無為自然の心を持って民を大いなる愚者にさせるのがよいのである。第五十七章にも「民の治め難きは、其の上の為す有るを以ってなり」とあり、民から知識を取り除くために、ことさら「愚民政策」をとるという意味でないことは明白である。

「智を以って国を治むれば、国を之れ賊し、智を以って治めざれば、国を之れ福す」。世俗的な知識を重んじて国を治めていったならば、道から遠ざかって、結局は国を損なうことになり、反対に、世俗的な知識を排除して国を治めていったならば、道から遠ざかって、結局は国を損なうことになり、反対に、世俗的な知識を排除して国を治めていけば、国に幸いをもたらす結果になる、ということ。

「此の両者を知るも、亦楷式なり」。「此の両者」とは、「智を以って国を治むれば、国を之れ賊し」と「智を以って国を治めざれば、国を之れ福す」の二句を指す。「楷式」は、法式。掟。世俗的な知識で国を治めれば国が損なわれ、世俗的な知識を排除して国を治めれば国を幸いにする、という二つの事柄は、昔からの政治の掟であったのだ、ということ。

「常に楷式を知る。是を玄徳という」。「玄徳」は、第十章、第五十一章にもあったが、奥深い所のさらに奥深い所に有る、微妙不可思議な徳のこと。常に此の政治の掟をわきまえている状態、それを「玄徳」というのだ、の意。

「玄徳は深く遠し」。この「玄徳」は奥が深く、また遠いものである。この世が形而下的な世界であるのに対し、「玄徳」という状態は、道と同じ形而上の世界に属し、それはなかなか知り得ない、奥深くはるかに遠いものである、ということ。

「物と反す。乃ち大順に至る」。そしてその「玄徳」は、この世の形而下的な万象とは矛盾しているように見えるが、実は偉大な道の持つ道理に従い、無為自然の境地に合致した徳なのである、ということ。


明治書院 老子より

これは江戸時代徳川幕府の愚民政策のように聞こえるのだが、能為第10章 には「あらゆる事柄に通じていながら愚者のようであるのがよい。」という記述がある。大いなる道を体得すれば聖人となろうが聖人となれば道(ここでは道理・宇宙をも支配するような自然や人の心が織りなす法則とまで解釈可能な)、全てを知り尽くしていても何も分らない愚者のように振舞うのが人格的なとげを取り、妬みや嫉妬、反感を買わずに治めることになるということのようである。老子は知による光を和らげると表現している。
言葉でこうとは表現しきれない自然や人の心の法則というのが世の中には存在しているのだから、その法則に逆らうような行動は無理があり長続きしない、だから、この自然・人心の法則というのをまず理解することに努めて自然・人心の法則に逆らわずに身を処しなさいということであろう。
孔子の論語もそうであるが、結局個々の教えが矛盾なく全体を通して関連付けられているので頭の中に個々の教えが蓄積されていないと一文を読むだけではおかしな文章としか感じられなくなってしまう。だが、より多くを理解し教えを心に蓄積した人にはおのずと理解が進むのだろう。
論語も200章近くあるが、読むほどにその神髄はいくつかの分野定理に集約されてくる、仁・信と言った語に集約されていくのであろうが、仁だけでは理解ができない。