その政治がぼんやりして暗い状態の時は、人民は純粋でのんびりした状態になる。その政治がはっきりして明らかな状態の時は、人民は純朴さを失いびくびくした状態になる。禍にはいつも福が寄り添い、福にはいつも禍が隠されている。禍福の究極の境目を誰が知ろうか、誰にも分からない。そもそも絶対的に正しいといえるものはないのである。正しいと見えるものも、逆に奇妙なものとなり、善いものと見えるものも逆に怪しいものとなるのである。人がこの迷いの世界に足を踏み入れてから、まったく長い時が経った。こういうわけで聖人は、自分は方正であっても、他をそれに合わそうとはせず、自分は清廉であっても、清廉さを他に求めて害を与えるようなことはせず、自分は真っ直ぐであっても、他を真っ直ぐに伸ばそうとはせず、自分に英知の光が輝いても、他を輝かせようとはしないのである。

Assimilate to caos.

If the politics is vaguely and dark people become pure and relax. If the politics is clearly and exactly people lost pureness and are afraid. Misfortune stands beside fortune and fortune always includes misfortune. Who knows the border is where ? Nobody knows it. Things seem right go to wrong oppositly,things seem good go to doubtful oppositly. Long long times have past since human being stepped into these confusion. Therefore saint never force others him if he is right, never harm others to forece fit to him if he is honest, never force others
straight if he is so, never shine others if he shines of his brightness.
 
この章は、道を体得した聖人の政治は、無為の政治なので、人々から見ると、ぼんやりとしたはっきりとはわからない政治であって、そのために民も純朴になると説く。そして世の中は一見正しいものが正しくないように、はっきりと明瞭に行われることは、逆に怪しいものであって、常に暗い混沌とした道の曖昧さを目指すべきだと主張している。タイトルの「順化」とは、ぼんやりした無為自然の道に「順い、同化する」ということで、章旨にかなっている。

「其の政悶々たれば、その民は醇醇たり」。「悶悶」は、曖昧でぼんやりしていること。「醇醇」は、醇朴であること。為政者が曖昧でぼんやりした政治を行えば、その下の人民は、皆醇朴でのんびりした状態になる。つまり、曖昧な混沌とした道を体得した聖人の政治は、はっきりした政治ではなく、人民に為政者がおり、政治が行われていると認識させないような、人為を用いない政治を行う。その結果、人民は政治の重圧を感じることもなく、のんびりと純朴な民のままでいられる、ということ。

「其の政察察たれば、其の民は欠欠たり」。「察察」は、はっきりしていること。「欠欠」は、落ち着きを失うこと。上文の「悶悶」と「察察」、「醇醇」と「欠欠」とがそれぞれ反対語になっている。逆に、其の政治が人民に対してはっきりと目を光らせているような政治であったら、人民は片時も心休まるときがなく、常に落ち着きのない状態になってしまう、ということ。

「禍は福の倚る所、福は禍の伏す所なり」。世の中は、禍だと思っている所に幸いが寄り添っていたり、幸いだと思っている所に禍が隠れていたりする。つまり、世の過福というものは、循環している、ということ。

「敦か其の極を知らんや」。その禍福の循環の営みは、人知の及ぶ所ではなく、誰にもその行き着く先はわからないものだ、ということ。

「其れ正無し」。そもそも正非などという概念は、相対的な概念であって、絶対的に「正」の状態などというものはないのだ、ということ。

「正も複奇と為り、善も復夭と為る」。「奇」は、奇怪なこと。「夭」は、怪しいこと。正しいと思っていることが奇怪なものに変容し、善なるものと見えるものも、たちまち怪しいものと変化してしまうのである。

「人の迷えること、其の日固に久し」。人間が、この相対的な迷いの世界に入り込んでから、まことに長い年月が経っている。つまり人間が、道という絶対的な世界から抜け出て、相対的な迷いの世界に踏み込んで抜け出られないという性を持っているのだ、ということ。

「是を以って聖人は、方して割せず、廉して害せず、直にすれども肆せず、光あれども曜かさず」。「方」は、方正(きちんとして正しい)の意。「割」は、切ること。「廉」は、清廉の意。「害」は、傷つけること。「直」は、真っ直ぐなこと。「肆」は伸ばすこと。「光」は英知の光。「曜」は、光り輝かせること。こういうわけで、聖人は、自分が方正であっても、他に対して、自分と同じように切りそろえて方正にしようなどとはせず、自分は清廉であっても、他を傷つけてまで清廉にしようなどとはせず、自分は真っ直ぐな人間であっても、無理やり他を引き伸ばして真っ直ぐにしようなどとはせず、自分は英知の光を有していても、無理に他を光り輝かせようなどとはしないのだ、の意。

明治書院 老子より