もし私が少しでも明知があるとすれば、大道を行くのに、ただ横道にそれることを畏れるのであろう。大道ははなはだ平坦であるのに、人民は横道である小道を好むものである。朝廷は大変良く掃き清められているが、人民の田は荒れ、倉は空っぽになっている。にもかかわらず、為政者は美服を着用し鋭利な剣を腰に帯び、たらふくごちそうを食べ、財貨はあり余るほど蓄えている。これこそ盗人である。まさに非道の極みである。
Evidence of Selfish politics.
If I have a little brightness I fear only go out from greate taoism way. Great
taoism way is very flat but peoples like side small way. King's court very clean up but people's farm is ruin and warehouse is void. Nevertheless public officers put on beautiful cloth,holding sharp sord with girdle, eating too much delicious,deposite jewel and money very rich. This is truely steeler. Worst humanity vice.
この章は、無為自然の大道が世に行われておらず、世の民は、常のこととはいいながら、邪道にそれてしまい、為政者も人民のための政治はどこへやら、自分達だけのための政治を行っているという、非道な社会を批判している。「益証」というタイトルは、本文と照らし合わせて考えてみても、意味は汲み取ることができない。
「我をして介然として知ること有しめば、大道を行くに、唯施を是れ畏る」。「介然」は、微細なさま。「施」は、よこしまなこと。もし私にわずかでも明知があるとしたら、大道を行くのに、ただただ横道にそれるのを畏れるだろう。「我をして介然として知ること有らしめば」は、謙譲の辞と考えられる。すなわち無為自然の大道をそれずに進むことが老子の信念であるが、その無為自然の大道を歩みつつも、常に畏れるのは邪道にそれて入り込んでしまうことだ、の意。
「大道は甚だ夷らかなるも、而も民は径を好む」。「夷」は、平らなさま、「径」は、小道のこと。邪道。無為自然の大道が凸凹で歩きずらいのならともかく、極めて平らで歩きやすいにもかかわらず、世の人々は横道である小道を歩きたがるものである。つまり、無為自然の大道を行なうことは難しいことではないのに、人々は様々な欲望や誘惑に負けてしまい、大道からはずれて、ほしいままに邪道へと踏み込んでしまうものである。その結果、無為自然の大道は世に行われなくなってしまった、ということ。
「朝は甚だ除なれども、田は甚だ蕪し、倉は甚だ虚し」。「除」は、掃除をすること。「蕪」は、荒れること。朝廷はたいそう掃除が行き届いて綺麗なのに対して、農民の耕す田畑は荒れ放題で、米蔵は空っぽである。つまり、道に則った政治が行われていないために、朝廷にいる者たちだけが、自分達のための政治を行い、庶民は生活に困り、政治を恨み、畑は荒れ放題、食べる米もないありさま、ということ。戦国時代の戦乱のうち続く世であるため、農耕をするどころではない、という時代を背景にしていると思われる。
「文綵を服し、利剣を帯び、飲食に厭き、財貨余り有り」。「文綵」は、美しい彩りのこと。そういう悲惨な庶民の生活をよそに、朝廷では豪華美麗に着飾り、立派な鋭利な剣を腰に下げ、飽きるほどたらふくにごちそうを食い、金蔵には財貨が有り余るほど詰まっている、ということ。
「是れを盗夸と謂う。非道なるかな」。「盗夸」は盗み取って贅沢にふける者のこと。このように、庶民の困窮をよそに、庶民から搾り取った血税によって贅沢な暮らしをする者たちを、盗み取って贅沢をする者というのである。何と非道なことではないか。
明治書院 老子より