人民が天の威光を畏れなくなれば、必ず天罰が下されるであろう。自分のいる場所を狭いと思わず、自分の仕事を嫌になることがない。そもそも、ただ嫌になることがないので、天からも嫌がられないのである。こういう訳で、聖人は、自分をよく知ってしかも自分の才能を外に表そうとはしないのである。自分をよく大事にしてしかも自分の身を貴いなどと思わないのである。だから、道に反するものから遠ざかり、道に合致するものに近づくのである。

True lover of oneself.

If people become not to fear the authority of Heaven , they will certainly be punished by Heaven. One feel not narrow where he takes place and never hate his work,first of all simply never hate one's circumstances , will be never hated by Heaven. So saint knows oneself very well and never appear his talent to outside. He is considerable himself and doesn't think himself as noble. Therefore he will be apart from none humanity but close to whom fits to humanity.

この章は、真に自分を知る者は、自己を世間に顕示しようとはせず、真に自分を愛する者は、自己の尊貴さを世間に表そうとはせず、ひたすら自分に与えられた分に安んじて、足るを知るのだと述べている。「愛巳」というタイトルは、「自分を真に愛する者は」という意で、本章の内容とよく合致している。

「民威を畏れざれば、大威至らん」。「威」は、天の権威、威力のこと。「大威」は、天の権威の最大のもの、則ち刑罰(死刑)のこと。人民が天の威力を畏れなくなって、自分勝手な振る舞いをして、天を侮ることになれば、天は怒りを発して、必ず天罰が下される、の意。

「其の居る所を狭しとする無く、その生くる所を厭うこと無し」。分に安んじ足るを知る人物は、自分に与えられた居場所を狭くて嫌だなどとは決して思わず、自分に与えられた生業を嫌になったりなどしない。本章は、学者によって様々な解釈が行われており、難解な章である。したがってここで行った解釈も、一つの解釈に過ぎない。

「夫れ唯厭わず、是を以って厭われず」。分に安んじ足るを知る人物は、ただひたすら嫌になることがない。したがって天もその態度をよみして決してその人物を嫌わないのである、ということ。

「是を以って聖人は、自ら知りて自ら見さず」。こういうわけで、道を体得した聖人は、自分に与えられた分をわきまえて居るので、過分な欲望を抱かず、自分というものを真に理解して、自分の才能等を顕示して、その存在を認められようなどとはしないのだ、ということ。

「自ら愛して自ら貴くせず」。同様に、自分の身を真に愛し貴んで、人に嫌われるような態度を避け、自分こそ貴いのだなどと驕り高ぶった態度は取らないのである、の意。

「故に彼を去りて此れを取る」。「彼」は傲慢さのこと。「此」は、分に安んじ、足るを知ること。したがって聖人は道に乖離する傲慢さから離れ、道に合致する分に安んじ、足るを知る態度の方をとるのである、ということ。


明治書院 老子より