人民が困窮のあまり死をも畏れなくなったら、どうやって死でもって人民を恐れさせることができようか。もし人民に常に死を畏れさせて、それでも悪事を働くものは捕らえて殺すことができても、どうしてあえてこれを殺そうか。この世には常に人を殺すことを司る天道があるのである。それを天道に変わって人を殺すなどというのは、ちょうど大工の名人に代わって木を切るというのである。そもそも大工の名人に代わって木を切れば、必ず手を傷付けてしまうのである。
Control the perplexity
If people aren't afraid death because of very poor, how do they make people fear by death. If makes people always fear death , nevertheless one punish an evil by death it's not better to do so evenif he can do so. In the world there is a heaven way like justice or priest to punish by death. But instead of heaven way one try to punish an evil by death it's no good like cutting the tree instead of master of carpenter. First of all if one cut tree instead of good carpenter he will certainly harm his hand.
この章は、為政者がみだりに人民に対して刑罰を行うことの非を述べたものである。為政者の用いる刑罰のうち最も重いのは死刑である。その死刑ですら、人民が自暴自棄になり死を畏れなくなれば無意味なものとなってしまう。だから不正の者を裁くのは天道に任せるのがよいという議論。「制惑」というタイトルも、重い刑罰さえ用いれば、人民は為政者に従うはずだ為政者の「惑いを制する」の意で付けられたもので、本章の趣旨によく合致している。
「民死を畏れずんば、奈何ぞ死を以って之を懼れしめん」。人民が困窮の果てに、死さえも畏れない、やぶれかぶれの状態になったとしたら、死刑などという脅しをかけたとしても、どうやって人民を畏れさせることができようか。そうなったら、どんなに恐ろしい刑罰をふりかざしたとところで、人民は政府の命令などには従わなくなってしまう。だから人民をそこまで追い込むような政治をしないことの方が大事なのだ、ということ。
「若し民をして常に死を畏れしめて、而も奇を為す者は、吾執えて之を殺すことを得ば、孰か敢えてせんや」。「奇」は不正のこと。よしんば、そこまで人民を追いつめず、いつも人民に死というものを畏れるようにさせた上で、それでも不正を為す者がいて、その者を私が捕らえて殺す権限があり、殺すことができたとしても、どうしてあえて殺すことをするであろうか。すなわち、天ではない人間は、相手がどんなに悪人であったとしても、けっして刑罰を行う資格などないのだ、ということ。
「常に司殺者有り」。「司殺者」は、殺すことを司る者、すなわち天道のこと。常に天道という殺すことを司るものがあって、天道が不正なものに刑罰を与え死に到らしめるのである、ということ。
「夫れ司殺者に代わる、是を大匠に代わりて斬ると謂う」。「大匠」は大工の名人。「斬」は、木を切ること。そもそも天道ではない人間が、殺すことを司る天道に代わって、人に刑罰を与えて殺すようなことは、たとえてみれば、普通の人間が大工の名人に代わって木を切るようなものである。つまり物事は専門家に任せればよいのであって、まさかりの扱い方知らないような素人が、大工の名人並みのことをやろうとしても所詮できない。それと同様に、人間である為政者が人を刑罰することなどやってはならないのだ、ということ。
「夫れ大匠に代わりて斬る者は、手を傷つけざる有ること希し」。それにもかかわらず、名人に代わって木を切ろうとする者は、必ず手を傷つける結果になる。つまり、為政者が司殺者である天道に代わって刑罰を行おうとすれば、必ず自分自身を損なう結果になるのだ、ということ。
明治書院 老子より