公山弗擾費を以て畔く。召す。子往かんと欲す。子路説ばずして曰く、之くこと未きのみ。何ぞ必ずしも公山氏に之れ之かん、と。子曰く、夫れ我を召す者は、豈徒らならんや。如し我を用うる者有らば、吾は其れ東周を為さんか、と。

 

公山弗擾(こうざんふつじょう)が自分が治めていた主人季氏の領地である費を根拠として謀反し、孔子を招いた。孔子はこの招きに応じていく気になった。門人の子路がこれを喜ばないで、「やめられたらいいでしょう。何もわざわざ反逆人の公山氏のところへなど行く必要はありますまい」と反対した。これに対して孔子は、「公山氏が他人を召ばないで、自分を招くのは、ただの虚礼ではあるまい。きっとわしの意見を聞くつもりがあるのだろう。私も、もし私を用いてくれる者があるなら、誰のところへも出かけていって、名分を正し、制度を整え、東方魯国に、周の文王・武王・周公の道を実現して、西周の平和な政治を再興したいと思うのだ」と。

 

公山弗擾は魯の貴族李氏の家老で、費(李氏の領地)の長官、姓は公山、弗擾は名。弗擾が乱を起こしたのは「史記」によれば定公九年で孔子五十二歳、多分孔子が定公に認められて中都の長官になる直前のことであろうか。なぜ叛乱を起こした公山の招きに孔子は行こうとしたのかについて、安井息軒は「論説集説」で、あらゆる点で道義に反した陽虎と違い、弗擾は陽虎をしばしば諫めており、李氏に叛いたのも、魯の王室の力を盛んにしようとした意図があったからであり、結果として孔子が行かなかったのは、そのことができそうもないことが分かったからであると述べている。なお、「東周を為さんか」の「東周」とは、いわゆる西周(前770年に洛陽に遷都する以前の周王朝)、東周(遷都後の周王朝)の東周ではなく、「この東方にある魯国に西周時代の文化を復興させよう」の意。

 

明治書院 論語より

 

 公山弗擾 費を以て畔(そむ)く 論語 孔子