子路・曾晳・冉有・公西華待坐す。子曰く、吾が一日爾より長ぜるを以て、吾を以てする事毋かれ。居れば則ち曰う、吾を知らざるなり、と。如し或は爾を知らば、則ち何を以てせんや、と。

 

子路・曾晳・冉有・公西華の四人が孔子の側に待っていたとき、孔子が「わしがおまえたちよりは多少年が上だからとて、わしに遠慮はいらないよ。おまえらは平生、世人が私を知ってくれないから仕事ができないと不平不満を言っているが、もしも、お前たちを認めて用いてくれる人があったら、おまえたちはいったい何をしようというのか。一つめいめいの抱負を言ってみるがよい」と言われた。

 

曾晳は、姓は曾、名は點、晳は字で、曾參の父で、子路より少し若かったようで、この四人は年齢順に席についていたようである。述而編に「我隠すこと無きのみ」とあるように、孔子は弟子たちには何も隠しだてをせず、気楽な話し合いの場を持っていたようで、ここでも「私に遠慮はいらないよ」と弟子の発言を促しており、学団の雰囲気がどのようなものであったかが良く理解できる。

 

子路、卒爾として答えて曰く、千乗の国、大国の間に摂し、之に加うるに師旅を以てし、之に因るに饑饉を以てす。由や之を為めば、三年に及ぶ比、勇有りて且つ方を知らしむべきなり、と。夫子之を哂う。

 

子路が無遠慮に立ち上がり、いきなりお答えして、「魯とか衛などの兵車千乗を出す程度の国が、斉・晋・楚のごとき大国の間にはさまり、ややもすれば侵略されそうな危険がある。おまけに戦争が起こり、さらにそのうえ飢饉で食糧難であるというような極めて艱難な場合に、私がこの難局に当たって政治を執るならば、三年もたつ頃には、その人民に勇気を回復させ、かつ国民に義務をわきまえさせ、正しい道を行わせるようにさせてご覧に入れましょう。」と言った。孔子はこれを聞いて、(子路らしいなと、)微笑された。

 

「卒爾」とはあわただしい様子を形容する言葉で、ここは「無遠慮に」の意味。千乗の国とは、戦車千台を保有している国の意で諸侯を言う。「摂」は接と同じで国境を接すること。「之に因るに」は「之に重ぬるに」と同じ。「哂」はほほえむことで、孔子はいかにも子路らしいと微笑したのであるが、「勇有てかつ方(品行方正というときの方の意味)を知らしむ」の「勇気があって」という点によく子路らしさが表れていると言えよう。

 

求、爾は如何、と。対えて曰く、方六十七十、如しくは五十六十、求や之を為さめば、三年に及ぶ比、民を足らしむべし。其の礼楽の如きは、以て君子を俟たん、と。

 

(待坐の順序からすれば曾晳に及ぶべきであるが、曾晳はちょうど琴を弾いていた。)そこで孔子は、「求やおまえはどうだ」と冉求に問いかけられた。冉求は子路が意気込んで口はばったいことを言って先生からちょっと笑われたので、大いに謙遜して、「私は千乗の国などは思いもよらぬことですが、六、七十里四方の国、あるいは五、六十里四方ぐらいの小国でありますならば、その政治の任に当たりまして三年に及ぶころには、人民の衣食を足らしめて生活を安定さすことができそうに思えます。しかし礼楽の教えをもって民心を感化さすことは、私の力の及ぶところでありませんから、盛徳の君子を待ってやっていただきたいと考えます」と静かにお答えした。

 

周代の制度では公爵・侯爵は百里四方、伯爵は七十里四方、子爵と男爵は五十里四方の領土が与えられるのがきまりであった。冉球は遠慮がちな性格で、悪く言えば引っ込み思案であり、方百里と言わずに「六七十如しくは五六十」と言い、「礼楽については君子にお願いしたい」と言うなど、冉求の性格がよく出ていて面白い。

 

赤、爾は如何、と。対えて曰く、之を能くすと曰うに非ず、願わくは学ばん。宗廟の事、如しくは会同には、端章甫して、願わくは小相たらん、と。

 

次に孔子は公西赤に対して、「おまえはどうか」と問われた。公西赤は元来礼楽に志していた男であるが、いま、冉求が、礼楽の事は君子を待ちたいと言ったばかりだから、私は礼楽の事を致しますとは言いかねて、謙遜な態度で、「私はこれから申し上げることが、自分によくできるというわけではありませんが、できますならば

、勉強して一心にやってみたいと存じますのは、国君の先祖の御廟の祭祀や、または、諸侯の国際的会合という場合に、礼装で威儀を整え、介添え位のお役を勤めさせていただくことでございます」と言った。

 

「赤」は公西華の名で、孔子は弟子たちには親しみを込めて本名で呼びかけていることが多い。「会同」とは諸侯同士の国際的な会合。端章甫の端は玄端のことで、黒色の礼服であり章甫は黒い布で作った礼装用の冠の事。公冶長編に「赤や束帯して(礼服で)朝に立ち、賓客と言わしむべし(お客様の応接をさせられる)」とあるように、公西華は礼に通じていたが、「之を能くすと曰うに非ず、願わくは学ばん」の言葉にはこの席で最年少の若者の謙虚さがよく表れている。

 

点、爾は如何、と。瑟を鼓すること稀なり。鏗爾として瑟を舎きて作つ。対えて曰く、三子者の撰に異なり、と。子曰く、何ぞ傷まんや。亦各々其の志を言うなり、と。曰く、暮春には、春服既に成る。冠者五六人、童子六七人、沂に浴し、舞雲に風し、詠じて帰らん、と。夫子喟然として歎じて曰く、吾は点に与せん、と。

 

孔子は最後に「点よお前はどうじゃ」と問われた。曾晳はいままで先生と兄弟弟子三人の問答を聞きながら、静かに琴をぽつんぽつんと弾いていた。コトリと音をさせて琴を置いて立ち上がり、「私は三君の抱負とはおよそ種類を異にしていますから」と遠慮した。ところが、孔子は、「めいめい思ったことを言ったのだから、なにも遠慮することはいらないよ」とおっしゃった。そこで、曾哲は答えて、「晩春の好時節に、春服に軽く着替えをして、元服したばかりの二十歳ぐらいの青年五六人と、十五、六歳のはつらつとした童子六、七人を連れて郊外に散策し、沂の温泉に入浴し、舞雲の雨乞い台で一涼みして、歌でも詠じながら帰ってきたいと存じます」と申し上げた。これを聞いた孔子は、深いため息をつきながら、「わしも点の仲間入りがしたいものだなあ」と言われた。

 

「鏗爾」とは、琴を置いた時のコトンという音の形容。「沂に浴す」とは、魯城の東南を流れる沂水のほとりに温泉があったとも、川を歩いて渡ることとも言う。「雩」とは雨乞いのための台で、雨乞いの祭りに舞を奉納したので「舞雩」と言ったもの。孔子が曾点の考えに賛同したのは、点の気負いのない点と、このような春の遊びができる世の中こそが、本当に平和な世であって、「老者は之を安んじ、朋友は之を信じ、小者は之を懐けん」という孔子の願いにかなったからであろう。

 

三子者出ず。曾晳後る。曾晳曰く、夫の三子者の言は如何、と。子曰く、亦各々其の志を言うのみ、と。曰く、夫子何ぞ由を哂うや、と。曰く、国を為むるには礼を以てす。其の言譲らず。是の故に之を哂う、と。唯求は則ち邦に非ざるか、と。安くんぞ方六十七十、如しくは五六十にして、邦に非ざるを者を見ん、と。唯赤は則ち邦に非ざるか、と。宗廟会同は、諸侯に非ずして何ぞ。赤や之が小たらば、敦か能く之が大たらん、と。

 

さて、子路と冉有と公西華の三人が孔子の部屋から退出して、曾晳だけそこに残った。曾晳は、なぜ先生が自分の言葉に同意されたか疑問があったのだろう。そこで、「あの三者の言葉はいかがでしょうか」と問うた。孔子は「あの三人も、まためいめい自分の志を言っただけで、結構だよ」と言われた。晳、「それでは先生はなぜ由をお笑いになりましたか」。孔子、「国を治めるには礼儀をもってせねばならぬ。しかるに由の言葉には、少しも礼儀ということがない。わしはその矛盾をちょっと笑ったまでだよ」。晳、「それでは求の言葉は、国を治めるという抱負を述べたのではありませんか」。孔子、「いやどうして、六、七十里四方、または五、六十里四方で、国でないものがあろうか。もちろん立派な国の政治の事だ。しかも、求なら由と同じような政治の能力があるが、謙遜して小国の経済のことだけを述べているので、同じ国の事でも礼儀があってもいいと思うよ」。晳、「ただ赤の抱負は国の政治の事ではございますまい」。孔子、「いやいや、宗廟の祭祀や、諸侯の会見のことは、諸侯の重大事でなくて、何が国の一大事といえようぞ。しかも、赤が小相として礼を助けるというのなら、誰が大相としてその長官の役を勤め得ようや。赤もまた謙遜のあまりあのように答えたのだよ」と。

 

この章は「論語」の中でいちばん長い章であるが、四人の弟子の性格がその話の中に実によく出ており、また孔子の豊かであたたかな人柄が感じられて味わい深いものがある。特に先生孔子を囲んだ四人の弟子たちが、礼儀を心得た中にも胸襟を開いたのびのびとした雰囲気があり、このような学校が今日存在していたら、新聞紙上をにぎわしている不登校やいじめなど起きるはずがないのではなかろうか。古典に学ぶ意味を痛感させる一章と言えよう。

 

明治書院 論語より

 
子路・曾晳・冉有・公西華待坐す 論語 孔子