子曰く、憤せざれば啓せず。悱せざれば発せず。一隅を挙げて三隅を以て反せざれば、則ち復せざるなり、と。

孔子が言われる、教えを受けんとする者で、自ら心に求め、疑問の解決に向かって情熱が盛り上がるようにならなければ、これをひらき教えてやろうとはしない。言うべき内容もできて、言いたくても、うまく言えなくて、口をモグモグさせる程度にまで進まないと、ひらき導いてやらない。例えば、四角なものを教えるにしても、一隅を持ち上げてみせると、他の三つの隅を自分から類推して反応を示すようでなければ、重ねて教えることをしない。(相手がまだ理解するだけの成熟さに達していないから、静かに相手の積極的な成熟を待つよりほかにないのだ。)

啓発(開発)主義教育という言葉の出典となった章である。啓発主義とは、人間は本来的に良い素質を持っているとの前提に立ち、その良いものをどうしたら発揮させることができるかを考える教育方法であり、現在のカウンセリングなども、人間の持つ向上心をどう引き出すかに重点がおかれている。「憤」と「悱」とは、ともに児童や生徒の学習への気持ちの盛り上がりのことで、その気持ちの盛り上がりを促す教育方法が開発主義である。「一隅を挙げる」とは一つのヒントを示して、それによって学生が他を類推することを待つものであり「礼記」の学記編にも「記問の学は人の師たるに足らず」といい、暗記主義や注入主義では人の師たる資格がないとし、詰め込み主義を排する考え方は儒家の伝統的な教育観と言えよう。だが今日のわが国の教育は、あまりにも偏差値万能の注入主義に流れており、それが登校拒否などの種々の問題行動となっている。儒家の「啓発主義教育」にもう一度目を向けることが大切ではなかろうか。

明治書院 論語 より

It's not worthwhile to teach someone who is not excited about learning.

From In English Kontu.

 Kontu said, I would never teach a person who wants to learn without having passion to resolve one's problem by oneself. I would never lead him until he decide what to say and skewing his mouse because he can't find out the correct word. For example, if I teach square to him , I will teach him no more without his rest 3 corner estimation when I teach one corner. (If learner doesn't preapare to learn enogh, I have no way elsewhere to wait his growing up becoming egnogh to learn.)



憤せざれば啓せず 論語 孔子