子曰く、周は二代に監がみて、郁郁として文なるかな。吾は周に従わん、と。

孔子が言われる、周は夏・殷の二代の礼法制度を観察し、その得失にかんがみて、周の文化を建設した。だから、その文物制度は郁郁として香しく美しいものがある。私は周の礼をすぐれたものとして、それに従おう。

周はもと殷の家臣であったが、文王西伯が人徳があり、領内は良く収まっていた。文王の子武王は、殷の暴君紂王を滅ぼし、紀元前1030年ごろ周王朝を建国した。武王は早く死に、成王が位につくが、成王は幼少であったので、武王の弟周公旦は成王を助けて周の文化の礎を築いた。旦は文王とともに聖人とされている。また、旦は魯国の始祖でもあり、孔子は旦の打ち立てた文物制度を賛美し、大功のあった周公を理想の人として心から尊敬していたことは、述而編に「子曰く、甚だしいかな、吾が衰えたるや。久しいかな、吾復た夢に周公を見ず」との孔子の述懐があることからも良く理解されるであろう。二代とは週に先立つ夏王朝と殷王朝である。

明治書院 論語 より


周は二代に監がみて、郁郁として文なるかな 論語 孔子