大いなる道を守って天下を行けば、どこへ行ったとしても危害を与えられることはなく、平安無事である。良い音楽やごちそうには道行く人は足を止める。ところが、道に関して何かを発言したとしても、淡々として味もそっけもない。いくら見ようとしても見えないし、聞こうとしても聞こえないが、用いてみると無限に用いることができるのである。

Value between two men relationship is humanity virtue.

You never harm and keep safe anywhere with if keeping greate humanity virtue. People stop to hear good music and tasty food. But if one talks humanity virtue too simple and blunt. It can't see if try to see,hear if try to hear,but if use it there is no limit.

この章は、無為自然の道の大いなる働きについての議論。世の万物は道に従ってさえいればどこに行こうと安全である。しかし、道自体は淡々として味も素っ気もなく、また、つかみどころがないものであるが、いざ道に頼って何かを為そうとすれば、その効用は無限なのである、といっている。この章になぜ「仁徳」というタイトルがつけられたのかはよくわからないが、おそらく、道は無限の働きによって万物を守り導いてくれるが、その仁愛の徳をめでてのタイトルであろう。

大事を執りて天下に付けば、往くとして害せられず、安平大なり」。「大象」は偉大な象(かたち)の意で、道のことを指す。「往くとして」は「、「どこへ行っても」の意。「安平大」は、平安無事であること。「安」は平穏、「大」は安泰。道を守って天下を行くとしたら、どこへ行ったとしても、偉大な道の働きに守られることになるので、他から危害を加えられることも無く、平安無事でいられるのだ、ということ。

「楽と餌とは、過客止まる」。「楽」は音楽のこと。「餌」は食べ物、ごちそうの意。耳を楽しませる良い音楽や、舌鼓を打たせる美味なごちそうがあると、通りすがりの人も足を止めて寄ってくる。すなわち、人間は世俗的な快楽にはすぐに飛びつくが、そんなものは一時的なものに過ぎず、恒常不変の道とは乖離しているのだ、ということ。

「道の口より出るとき、淡として其れ味なし」。ところが、道の方は世俗的な快楽とは異なり、仮に聖人が道について真理を語ったとしても、淡々としていて味も素っ気もない。つまり、無為自然の道の真理は、常人が引き寄せられる世俗的な快楽のように刺激的な要素を持たない、ということ。

「之を観るも見るに足らず、之を聴けども聞くに足らざるも」、道は、形のない形をしているので、いくら注意して見ようとしても、見ることは出来ず、また音のない音を有しているので、いくら耳傾けて聞こうとしても聞こえないのである。つまり、道ははっきり見たり聞いたりできる存在ではないが、ということ。

「之を用うれば既くす可からず」。すぐに把握できる世俗的な快楽と違って、道はなかなか把握できるものではないが、道に頼って何かをしようとすれば、道はいくらでもそれに答えてくれ、その効用は無限であり、尽きることがない、ということ。

 


明治書院 老子より

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道は水が氾濫するように、左でも右でもあらゆるところに行き渡っている。万物はこの道に頼って生じているが、道は何も語らない。功績を挙げてもその功名を得ようとはしない。万物を慈しみ養いながら、主宰者となろうとしない。このように道は常に無欲なので、小さい存在ということができる。道は万物が帰属しながら主宰者になろうとはしない。だから、大きな存在と言うこともできるのである。こういうわけで、聖人は、自身を最後まで大きな存在と考えない。だから、逆に大きな存在でいられるのである。

Modesty effect of Taoism.

Taoism spreads every where leftside and rightside. Everything born tending this Taoism , but it never say. It never try to get honor if it makes achivement. It loves and bring up everything, but never try to become president. Therfore it is very large presence. In this reason saint never think himself as large presence. So he is large presence oppositely.

この章は、道の 広大無辺で謙虚な働きについての議論。道はあらゆるものに頼られながら、しかも慈しみ育てながらも常に無欲でへりくだっている。けっして万物の上に立ち主宰しようとしない。従って真に偉大な存在となるのであり、その道に従う聖人もまた偉大な働きをするという意で、この章の趣旨に合致している。

「大道氾として、其れ左右す可し」。「氾」は水が氾濫すること。「氾」を「汎」に作って、ゆらゆらと漂うさま、と解する説もある。「左右す可し」とは右へも左へもあまねく行きわたること。無為自然の大道は、水が氾濫するように、自由自在にあらゆる場所に行きわたることができる、ということ。

「万物之を恃みて生ずるも、而も辞せず。功成りて名を有せず」。「恃」は、知ること。「辞」は言葉を発すること。「辞退しない」の意とする説もある。世の万物は、この道を頼りにして生じているが、道は万物を生じさせたという功績について一言も語らない。また、功績を挙げてもその功名を自分のものとはしようとしない。すなわち、道は常に無欲で、私心を持たない、ということ。

「万物を愛養して、主と為らず」。「愛養」は、悲しみはぐくむこと。「主」は、主宰者・支配者のこと。道は万物を慈しみはぐくむという恩恵は与えながらも、けっして万物の上に立って支配者づらをしようとはしない、ということ。

「万物に之に帰して、主と為らず。名付けて大と為す可し」。しかし、道の実体は、万物が道を頼って帰属しながらも、道は決して支配者づらをしないで謙虚な態度でいるので、逆に「偉大な存在」と呼ぶこともできるのである。

「是を以て聖人、終に自ら大とせず」。このような道の働きを体得した聖人は、それゆえ最後まで自身を「偉大な存在」などとはけっして思わないのである。すなわち、聖人は常に無欲で謙虚であるので、自身を偉大だなどと考える事すらない、の意。

「故に能く其の大を成す」。自身を決して偉大だなどと思わないので、逆に皆から慕われて結局真に「偉大な存在」となることができるのだ、ということ。つまり、主宰者などという意識をまったく持たない広大無辺の道に合致した聖人の働きは、真に偉大である、ということ。

 


明治書院 老子より

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人を知る者は知者といえるが、自分をよく知っている者こそ真の明者である。人に勝つ者は力のある者といえるが、自分に勝つ者こそ真の強者である。足ることを知る者は真の富者であり、つとめて道を行うものは志のある者である。自分の居場所を守って失わない者は長く無事でいることができ、肉体が死んでも自分の生きた痕跡を残し続ける者こそ長寿というのである。

Lesson of virtue.

 Knowing the man is clever, knowing oneself is true brightness. Overcoming others is powerfull , overcoming oneself is true strongness. Knowing enogh is true rich , making effort to wear humanity is true ambitious one. Protecting one's status without loosing can be safe for long time, recording one's evidence of his life for long after his death is true long life.


この章は、真の知者とは、真の力とは、真の富とは、真の志とは、真の長寿とは、ということについて述べている。タイトルの「弁徳」とは、これらの事柄をすべてわきまえている無為自然の道を体得した人物の「徳について弁ずる」という意であろう。

「人を知る者は智、自らを知る者は明なり」。他人を洞察してよく知る者は智者といえるが、自分自身を知ることのできる者は明察力のあるひとである。ここの二句は、「他」と「自」、「智」と「明」とが対応関係にある。つまり、他人をよく観察してどのような人物であるかを見抜くことのできる人間(おそらく儒家的な人物を想定していると思われる)は、それはそれで一応智者と呼ぶことができる。しかし、その段階ではまだ不十分で、真に明察力に富む人物というのは、自己を完全に把握できる人物なのである。すなわち、「智」よりも「明」のほうが高次元である。

「人に勝つ者は力あり、自らに勝つ者は強し」。他人を打ち負かして勝ちを治める者は、力のある人物と言えるが、自分自身に打ち勝つことができるのは強い人物である。ここも上の二句と同様の論理。つまり、他人を打ち負かすことのできる者は、それはそれで、一応力のある人間と認めることができる。しかし、それではまだ不足で、真に強い人間というのは、自分自身の欲望などに打ち勝つことのできる者なのである。ここも「力」より「強」のほうが高次元である。

「足るを知る者は富み、強めて行うものは志有り」。「足るを知る」とは、自分に与えられた境遇をそのままに受け入れ、そこに安らぎと幸福を見出すこと。「強めて行う」とは、自身努力して怠らないということ。「志有り」とは、道を目指すという意志があること。ここの議論は、前の四句とは異なり、二つの句が並列の関係で述べられている。やたらに富を追い求め、結局道からはずれてしまうより、自らの与えられた境遇に満足できる者の方が、道に合致することになり、真の意味の富者となることができる。また、自分自身で努力して道を行おうとする人間は、真に道を得ようとする志のある人間といえる、ということ。なお、「足るを知る」という語は、「老子」から出て故事成語となったものである。

「其の所を失わざる者は久しく、死して亡びざる者は寿なり」。「所を失わざる者」とは、自分に与えられた居場所を守って失わない人物のこと。すなわち自己の本来の在り方を見失わない者のこと。「死して亡びざる者」とは、たとえ肉体は亡んだとしても、その精神を後世まで残す者の意。自分の本来の在り方を見失わないで生きる者は、道に合致することになる。また、たとえ肉体は滅んでも、道を体得した人物は永遠に滅びない道と一体になることができ、その精神を後世の人々の心に残したりして、永遠の命を得ることになる、ということ。

 


明治書院 老子より

敵に勝つより己に勝て


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