世の中に柔弱な物はたくさんあるが、水より柔弱な物はない。しかし、堅強な物をせめるのに、水に勝るものを私は知らない。そもそも水に変わり得るものなどはないのである。弱いものが強いものに勝ち、柔らかいものが剛いものに勝つという道理は、世の中で知らない者はいないが、それを実行できる者はない。だから聖人は言っている。「一国の恥辱を一身に負う者、これを国家の主といい、一国の不幸を一身に負う者、これを天下の王という」と。正しい言葉というものは、一見反対のように見えるのである。

Correct statement seems against one's wishes rather opposite.

There are so many weaks in the world, but nothing is less than water. Although when attack very strong article nothing is superior to water. First of all nothing can replace to water in the world. Weaker overcome stronger,softy overcome rigidity, that theory well known in the world but nobody can do it. Therfore saint said "Who carry alone a nation's shame called Lord of nation, who carry alone a nation's unfortune called King of nation."
Correct word seems opposite at a glance.

この章は、水をたとえに挙げ「柔よく剛を制す」という理屈を説明し、為政者は常に水のように柔軟にへりくだった態度を取らなければならない、と述べている。「任信」というタイトルは、「正言は反するが若し」という本文の理屈を信ずるか、信じないかは、読者に任せよう、という意で付けられたものと思われる。

「天下の柔弱なるもの、水に過ぐるは莫し」。第八章にも「上善は水の若し。水は善く万物を利して争わず」とあるように、水は老子が道に最も近い物質として称えているものである。世の中には柔らかくて弱いものは数多くあるが、その中でも水より柔弱なものはない。たとえば水は四角な器に入れれば四角く形を変え、丸い器に入れれば丸く形を変える。また、水を手に掬えば簡単に指の股からこぼれ落ちてしまう。このように水は常に他のものが主体となって、それに合わせるという柔らかさ・弱さを持っている。

「而も堅強を攻むる者、能く勝るあるを知る莫し」。最も柔弱な存在でありながら、堅くて強いものを攻撃するのに、水より優れたもの知らない。ここは、「点滴石を穿つ」というような光景、あるいは洪水が堤防を破壊する光景、あるいは難攻不落の城を水攻めにする光景などを思い浮かべての議論であろう。

「其れ以って之に易わるもの無し」。そもそも水に代わるものはないのである。

「弱の強に勝ち、柔の剛に勝つは、天下知らざるもの莫きも、能く行うは莫し」。以上のように、世間では、弱いものが強いものに勝ち、柔らかいものが堅いものに勝つという例はたくさんあり、世の人々も知らない者がないはずだが、この道理を体得して実行できる者はいないのである、の意。

「故に聖人云う、国の垢を受くる、是を社稷の主と謂い、国の不詳を受くる、是を天下の王と謂う、と」。「垢」は恥辱の意。「社稷」は土地の神と穀物の神のこと。国王がその祭祀を行ったので、転じて国家の意で用いる。「不詳」は不吉・災厄の意。だから道を体得した聖人は、こう言うのだ。国家の汚辱の部分を一身に引き受ける者、これを国家の主宰者といい、国家の災厄を一身に引き受ける者、これを天下の王というのだ、と。つまり、国家の主宰者たる為政者はつねにへりくだって、国家の恥辱や災厄を率先して引き受けねばならない、ということ。

「正言は反するが若し」。この聖人の言葉のように、真に正しい言葉というのは一見、常識とは反するように聞こえるものである。国家の主宰者は最高の地位であり、栄誉を受けたり、吉祥を受けたりするのが当然と考えるのが常識かもしれないが、ということ。また、この句は後生、成句として逆説を表すものとして用いられる。


明治書院 老子より


このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

天の道と言うのは、ちょうど弓に弦を張る時のようである。弓に弦を張るときは、弓の上の部分は押し下げ、下の部分は引き上げる。長い弓の方を縮めて、短い弦の方を引っ張るのである。天の道も、余りある方を減らして、足りない方に与えるのである。ところが、人の道はそれとは違っている。足りない方をさらに減らして、余りある方に差し出しているのである。いったい誰が、余りがありながら、世の人々の為に差し出すであろうか。それは道を体得したものだけができることである。こういうわけで、聖人は大きな仕事を成し遂げながら、その功をあてにせず、大きな功績を挙げながら、その名誉の地位にとどまろうとはしない。聖人は自分の賢明さをひけらかすことを望まないのである。

Well balance of nature rule.

The heaven's way likes just string a bow. When stringing a bow up side down and down side up. Long bow side shrink and short string side extend. The heaven way also reduce rest side and give to short side. But human way reduce short side more and give to rest side more. Who give to short side while he has rest,is anyone ? It's possible only mastering humanity virtue. Therefore the saint achieve large merit but not depend on it and achieve large success but never stay the honor status. The saint doesn't want to make a display his wiseness.
  
この章では、天の道が世の不平等を望まず、世の中のバランスをうまくとっていこうと志すのに対し、現実の社会ではまったく逆に冨めるものはいよいよ富み、貧しき者はいよいよ貧しくなるといった不平等が行われていることを批判している。「天道」というタイトルは、まさに天地自然の法則に則るべきであるということを表したもの。

「天の道は其れ猶お弓を張るがごときか」。「天の道」は、天地自然の法則のこと。「弓を張る」は、弓に弦を張ること。ここでは、天地自然の法則を説明するのに、弓に弦を張るときの作業過程をたとえに引いている。

「高き者は之を抑え、下き者は之を挙ぐ」。弓に弦を張る際には弓を立てるが、その高い部分、すなわち上端の部分を下に押し下げ、低い部分、すなわち下端の部分を押し上げて弦を張る。天地自然の法則も、高く出るものは低く押え、低いものは高く引き上げ、うまくバランスをとっている、ということ。

「有り余る者は之を損らし、足らざる者は之に与う」。「有り余る者」とは、弓と弦とを比較した場合、弓の方が長いので、その長い方の弓、ということ。「足らざる者」とは、逆に短い方の弦のこと。弓を張るときには、長い方の弓を縮め、短い方の弦を引っ張って張り、弓の強度を調整する。ここは、その作業過程を説明したもの。

「天の道は余り有るを損らして足らざるを補う」。天地自然の法則も、弓に弦を張る過程と同様、余りある方、すなわち十分すぎるほど所有している方を減らして、足りない方、すなわち乏しく所有していない方に補って、うまくバランスをとるのだ、ということ。

「人の道は則ち然らず。足らざるを損らし以って余り有るに奉ず」。ところが、天地自然の法則を理解しない、現実の人間界で行われているやり方は「天の道」とは違っている。乏しくほとんど所有していない方からさらに減らして、有り余るほど所有している方に差し出している。すなわち現実の社会では、貴賎の差別が行われ、貧しき者はさらに搾取され、貴きものはいよいよ富を蓄えるといった図式を批判したもの。

「敦か能く余り有りて以って天下に奉ぜん。唯有道者のみ」。人の常として、多く所有すればするほど、いよいよ所有欲が増して、余ったものを世のため人のために差し出すことができるのは、ただ天地自然の法則、すなわち道を体得した人物だけなのだ、ということ。

「是を以って聖人は、為して恃まず、功成りて処らず」。「為して恃まず」とは、偉大な仕事を成し遂げながら、その功をあてにしない、ということ。この表現は、第二章、第十章、第五十一章にも見える。「功成りて処らず」とは、成功を収めてもそれに伴う高い地位にとどまろうとはしない、ということ。

「其れ堅を見すを欲せざるなり」。聖人は自分の賢明さを他に示すことを望まない、謙虚な態度で世に処している。こういう聖人のような人物こそ、人民の上に立つ為政者となるべきで有る、ということ。



明治書院 老子より

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

人は生まれてくるとき、その身体は柔らかく弱々しいが、死ぬと身体は硬くこわばってしまう。同様に、草木なども生まれ出た時は、柔らかくもろいが、死ぬと枯れて硬くなってしまう。だから、堅く強いものは死の仲間なのであり、柔らかく弱いものは生の仲間なのである。こういうわけで、軍隊が強ければ、国は滅び、樹木の強いものは、折られてしまうのである。強大なものは下の地位となり、柔弱なものが上の地位となるのである。

Take care of not too strong.

Human body was very soft and weak when he was born,but after death it will be rigid and stiffen. As the same way many plant was soft and weak when it was born,but after death it will be blasted and solid. Therefore rigid and strong article is death group ,soft and weak article is live group. Therefore nation goes to ruin if it has strong military,strong plant will be snapped. Strong and huge one will go lower position but soft and weak one will go upper position. 

この章では、世俗の評価では堅強なものを優れたものとするが、堅強なものは、自然界の死の状態であり、けっして優れた状態ではない。世俗の評価は低くとも、柔弱なものは自然界の生の状態であり、望ましい。よって、堅強を捨て去り、柔弱を目指せと主張している。「戒強」というタイトルも「堅強にならぬよう戒めよ」の意で、本章の趣旨にかなっている。

「人の生まるるや柔弱なり」。人間は生まれたばかりの嬰児のときは、柔らかく弱々しい存在である。生まれてすぐの赤子は手に取ると餅のように柔らかく、手にねばり付くような感じがする。ここはそのような実際の観察に基づくものであろう。嬰児の柔軟さは、老子が水とともに道に極めて近い存在として尊ぶものである。

「其の死するや堅強なり」。人間は死んでしまうと硬くこわばってしまう。これも、死者の死後硬直などを観察した実体験に基づくものであろう。

「万物草木の生ずるや柔弱なり」。「万物草木」は、草や木を代表とする世の万物の意。「万物」の語がない本もある。草や木を代表とする世の万物は、この世に生まれた時は、皆柔らかく脆い状態である。一説に、柔らかくふっくらした状態、とする。

「其の死するや枯槁す」。「枯槁」は枯れてひからびること。柔脆の反対の意を表す。この世に生じた時は柔らかく脆い草木も、死んだ時には枯れて干からびて硬くなってしまう。

「故に堅強なる者は死の徒、柔弱なる者は生の徒なり」。「死の徒」「生の徒」はそれぞれ「死の世界に属する者」「生の世界に属する者」の意。万物は死ぬと皆硬くこわばってしまう。だから、堅強なものとは、世俗の常識では優れたものとみなされているが、結局は死の世界に属するものであって、よしとするものではない、ということ。逆に、万物はこの世に生まれ出るときには皆柔らかく、弱い。世俗の常識では劣ったものとみなされがちであるが、その実、生の世界に属するものであり、よしとすべき状態なのだ、ということ。

「強大なるは下に処り、柔弱なるは上に処る」。「強大」は「堅強」を言い換えたもの。すべて強大なものは、死の世界に属するので結局は滅び行く運命を担って、世俗の評価とは逆転して、もともと下位に位置するものであり、柔弱なものは、生の世界に属するので、もともと上位に属するものなのである、ということ。

明治書院 老子より

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ