真の知者は何も言わない。逆に、何かを言う者は何も知らない。外界からの情報の入り口である、目・耳・鼻・口の穴を塞ぎ、その情報の入り口の門を閉ざし、自分の鋭さを挫き、その鋭さによって生ずるもつれをほどき、自分の知恵の光を和らげて、世俗の塵埃の中に同化する。こういうことを奥深い道に同調するというのである。このような状態になった者に対しては、馴れ馴れしく近づいて親しむこともできないし、また離れて疎んずることもできない。利益を与えることもできないし、また害を与えることもできない。貴くすることもできないし、また卑しむこともできない。だから、世の中で最も貴い存在となるのである。

Deep inside virtue of adult.

True wise man saying nothing. Conversely a man saying something knows nothig. Close your information gate from outage world , eyes,ear,nose,mouse wholes of body. And then weaken your sharpness, resolve troubles caused from your sharpness , decrease bright shine of you, assimilate the dust of temporal. These called syncronize to deep inside of taoism humanity virtue. Against the master of taoism humanity virtue close to like that circumstances nobody can't both easily be familiar to and unlike far apart. Nobody can't give profit to him and harm him. Nobody can't treat as noble and  humble. Therefore he can become noblest presence in the world.

この章は、無為自然の道を体得した聖人が、言葉の虚しさを知って言葉を用いず、また世俗的な外界からの情報をすべて遮断することによって、無心の境地となり、偉大な存在となり得ていることを述べる。「玄徳」というタイトルは、「深遠微妙な成人の徳」ということで、本章の内容によく合っている。

「知者は言わず、言うものは知らず」。真の知者は言葉を用いて虚しい弁舌など行わない。逆に、言葉を用いるものは、真の知者とはいえない。老子は言葉を虚しいものとして規定している。第四十三章には「不言の教え、無為の益は、天下之に及ぶもの希し」とあり、言葉を用いないことの偉大さを述べ、第五章では「多言は数々窮す」とあり、多言の無意味さを述べている。ただし、言葉をまったく否定しているわけではなく、第十七章では「猶として其れ言を貴べ」とあり、慎重に言葉を選ぶべきだと述べ、第二十七章でも「善く言うものには瑕謫無し」とあり、真に善い言葉を評価している。また第六十二章では「美言は以って市る可く」とあり、真の言葉としてではあるが、言葉を評価している。

「其の穴を塞ぎ、其の門を閉じ、其の粉を解き、其の光を和らげ、其の塵に同ず」。「穴」は、目・耳・鼻・口の七つの穴のこと。すなわち外部からの情報を内部に取り入れる入り口である穴の意。「門」は、外部からの情報を「穴」で受け、それに反応して内部から出て行く時の心の門ということ。「鋭」は、鋭気のこと。「粉」は、紛糾した状態のこと。「光」は、才知の輝きのこと。外界からの欲望を喚起するような情報の入り口である、目・耳・鼻・口の七つの穴を塞いでしまえば、其の情報を遮断することができ、つまらぬ欲望を起こすこともなくなる。さらにその奥にある情報に反応する心の出口である門を閉ざしてしまえば、外界との交通の遮断はなおのこと完璧になる。そして他との摩擦を生ぜしめる自分の鋭気を極力挫いて、鋭気によって生ずるであろう他との紛糾した状態を解きほぐし、自身の英知の輝きを和らげ光を失わせ、英知の輝きを失わせてくれる塵埃の世界に身を置いて同化する。

「之を玄同と謂う」。以上のような状態を、道と合致するというのである。つまり、完全に道と一体になった境地ということ。

「故に得て親しむ可らず、亦得て疎んず可らず」。道と一体になることができた人物に対しては、他人は誰も近寄って馴れ馴れしくすることもできなければ、また離れて疎遠になろうとすることもできない。すなわち、其の人物が世俗の親疎の情などとは無縁の世界に住んでいる、の意。

「得て利す可らず、亦得て害す可らず」。これも同様に、世俗の利害関係とは無縁の世界に住んでいるので、その人物に利益をもたらすこともできないし、害を与えることもできない、の意。

「得て貴くす可らず、亦得て賤しくす可らず」。さらに、世俗の貴賤の価値判断とは無縁の世界に住んでいるので、その人物に対しては、尊貴な地位を授けることもできないし、卑賤な地位におとしめることもできない、ということ。

「故に天下の貴と為る」。以上のような理由で、そういう人物は、世の中で最も貴い人物となり得るのである。



明治書院 老子より

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徳を厚く身に修めた人物は、ちょうど赤子になぞらえることができる。赤子は、害虫も刺さないし、猛獣も襲いかからないし、猛鳥も飛びかからない。まだ骨は弱く、筋肉も柔らかでありながら、握る力は固くしっかりしている。まだ男女の交わりのことは知らないのに、その陰部が勃起するのは精気が充実しているからである。一日中大声を上げて泣いても、声がかれないというのは、自然との調和がうまくなされているからである。自然との調和がうまくなされれば、恒常不変の状態となり、恒常不変の状態となれば明和の状態となる。これとは逆に生を無理に益そうとすれば、不吉の兆しが現れ、心が気よりも上回って気を支配するようになると、剛強となってしまう。万物は盛んになりすぎると老衰してしまう。これを道にはずれたことという。道にはずれればすぐに滅び去ってしまうのである。

Sign of deep inside of taoism humanity virtue.

The person wearing full virtue compare a baby. Bugs never stick baby, animals never attack baby, hawk never fly by baby. Baby's bone is still weak,muscle is still soft, but it's gripping power is rigid and strong. Still not knowing male and female loving but genital is vital because his spirits is fulfilled. Baby crying day long but never husky his voice is, the reason why is well balanced with nature. If having well balanced nature the circumstances become everlasting, if having everlasting circumstances it goes brightness situation. Constantly one tries its life strong unhapiness sympton will appear , if mind overcomes spirit and control it becomming dostinate. if all things become too prosperous it will be decrepitude. This called out from taoism way. If one is out from taoism way it will go to  ruin soon.
     
この章は、道を体得した成人のことを赤子になぞらえて説明している。赤子が柔弱な存在でありながら、何にも負けない強さを有しているのは、赤子が柔弱を尊ぶ道と一体化している存在だからで、逆に剛強な存在は滅びを待つ存在なのだと説く。「玄符」というタイトルは、「深奥な道の符(しるし)ということで、赤子のことをいったもので、本章の趣旨にも合致している。

「徳を含む事の厚きものは、赤子に比す」。無為自然の道の徳を多く身に体した者というのは、ちょうど赤子と比較できる。老子は、赤子を極めて道に近い存在として、水とともにしばしば取り上げている。第十章には「気を専らにし柔を致して、能く嬰児たらん」とあり、赤子のように柔弱であるのが道に合致することだと述べ、第二十章にも「其れ未だ兆さず、嬰児の未だ孩せざるが如く」と道を体得した聖人のあり方の比喩として挙げられ、さらに二十八章にも「常徳離れずして、嬰児に復帰す」とあり、根源である道と同等のものとして評価されている。

「毒中も刺さず、猛獣も拠らず、攫鳥も博たず」。「毒中」は、蜂や蠍や蝮などのこと。「攫鳥」は、鷲や鷹のような猛禽類のこと。無為自然の道に合致した赤子に対しては、害虫も刺すことができず、猛禽類も爪もかけることができない、ということ。

「骨弱く筋柔らかにして而も握ること固し」。また、赤子は、骨も弱く、筋肉も柔らかであるが、それでいて何かを握らせると想像もできないほどの力で握ることができる。これは赤子の生態をよく観察している部分である。

「未だ牝牡の合を知らずして、而も峻の作こるは、精の至ればなり」。さらに赤子は、まだ男女の交合も当然のことながらまだ知らないわけであるが、それでいて、性器が勃起することがあるというのは、それは精気が極めて充実しているからなのである。

「終日号して唖せざるは、和の至ればなり」。さらにまた、1日中大声をあげて泣いているにもかかわらず、声が出なくなることがないというのは、内なる和気が極めて充実しているからである。和気すなわち自然との調和の気が充実している、ということ。

「和を知れば曰ち常、常を知れば曰ち明なり。生を益せば曰ち祥、心気を使えば曰ち強なり」。このように和気を体得できる者は、恒常不変の状態を得ることができ、恒常不変の状態を得ることができれば、明知、すなわちすべてを洞察できる知恵を身につけることができるのである。反対に、生を益そう、すなわち寿命を延ばそうなどと、やたらに考える者には、凶兆(ここの祥は、幸いの意ではなく、凶兆の意)が現れ、心が気を上回って気を支配するようになると、剛強となって結局挫折することになる。

「物壮んなれば則ち老ゆ。之を不動と謂う。不動なれば早く已む」。万物は、あまりにも盛んになりすぎると、すぐに老衰が待ち受けているのである。これを道に外れたものという。道に外れれば、すぐに滅んでしまう。万物は道から発生し、成長し強壮の時を迎え、やがて老衰をして死滅して行き、道へと回帰する。この循環を考えれば、道から発したばかりの赤子の状態の時が、柔弱ではあっても、道に近いものであり、成長して剛強となり絶頂の時を迎えたとしても、それは赤子に比して死滅の方向に極めて近い状態なのだ、ということ。

明治書院 老子より


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しっかりと確立された道は、引き抜かれることがない。しっかりと抱き守られた道は、抜け落ちることがない。子孫はそのために先祖の祭りを絶やすことがないのである。この道の与えてくれた徳を自分の身に修めたならば、その徳はまさに本物であり、この徳を家に修めたならばその徳はあり余り、この徳を郷里に修めたなら、その徳は長く続くことになり、この徳を国に修めたならば、その徳は豊かになり、この道を天下に修めたならば、その徳はあまねく行きわたるのである。したがって、自分のことは自分で見、故郷のことは故郷で見、国のことは国で見、天下のことは天下で見るのである。どうして天下がそのようなっているとわかるのか。それは、今述べたことからわかるのである。

Observe the circumstances by mastering humanity taoism.

The titly established humanity taoism will be never picked out. The titly held and guarded humanity taoism will be never dropped out. The desendants never stop their anscestors' presenting. If one masters this given from humanity taoism , the virtue is genuine article.
If family masters this given from humanity taoism, the virtue is a gult. If one's native villege master this given from humanity taoism, the virtue will continue for a long time.
If the nation master this given from humanity taoism, the virtue will be very rich. If whole countries master this given from humanity taoism, the virtue will spread universally fullfilled.
 Therefore one takes care of oneself,native villege takes care of itself,the nation takes care of itself,whole countries take care of themselves. Why can I understand the whole countries constructed like that ? The answer is already told all.  Vice versa.

この章は確個として道を体得すれば、個人のレベルでも、家のレベルでも、ひいては天下のレベルでも、それぞれに対して大きな効用をもたらしてくれることを述べている。「修観」というタイトルは、本文に多用されている「修」と「観」とを合わせたもので、「道の修め具合によって物事のありさまを観察する」の意となり、本章の趣旨に合致している。

「善く建つる者は抜けず。善く抱く者は脱せず」。たとえば杭などのように、しっかりと打ち込まれたものは、根っこから引き抜くことはできない。それと同じように、無為自然の道を体得し、しっかりと確立させた者は、どんなに外部からの誘惑などに遭遇したとしても、その身から体得した道を抜き取られることがない。また赤子を抱く時などのように、しっかりと胸に抱かれたものは、その手から抜け落ちることはない、ということ。なお、この二句は、当時使われていたことわざの類を用いて説明を試みようとしたものと考えられる。

「子孫祭祀してやまず」。このように、道を確個として見に付けた人物は、天もそれを見守ってくれるので、その家は子々孫々まで永続し、子孫もまた道を体得することになるので、いつまでも祖先の祭祀を絶やすことがないのだ、ということ。

「之を身に修れば、其の徳乃ち真」。その無為自然の道を、個人という単位で体得したならば、それによって得られた徳は純粋真実なものとなる、ということ。

「之を家に修れば、その徳乃ち余り有り」。その無為自然の道を、家という単位で体得したならば、それによって得られた徳は有り余るほどになる、ということ。

「之を郷に修れば、その徳乃ち長し」。その無為自然の道を、郷里という単位で体得したならば、それによって得られた徳は長久なものとなる、ということ。

「之を国に修れば、其の徳乃ち豊かなり」。その無為自然の道を、国家という単位で体得したならば、それによって得られた徳は極めて豊かなものになる、ということ。

「之を天下に修れば、其の徳乃ち普し」。その無為自然の道を、天下という単位で体得したならば、それによって得られた徳はあまねく行きわたるものになる、ということ。

「故に身を以って身に観」、したがって、その個人の現在・将来のことを知ろうとしたならば、個人の道の納め具合を観察すれば良い、ということ。これ以下、五句の意味は諸説あり、明確ではないが、最後の「何を以って天下の然るを知るや。此れを以ってなり」、という記述から判断して、以上のような解釈を行った。

「家を以って家に觀、郷を以って郷に觀、天下を以って天下に観る」。その家の現在・将来のことを知ろうとしたならば、その家の道の修め具合を観察すればよく、その郷里の現在・将来のことを知ろうとしたならば、その郷里の納め具合を観察すれば良く、その国家の現在・将来のことを知ろうとしたならば、その国家の道の修め具合を観察すれば良く、天下の現在・将来のことを知ろうとしたならば、天下の道の修め具合を観察すれば良い、ということ。

「何を以って天下の然るを知るや、此れを以ってなり」。では、どうして私に天下の現在・将来の治まり具合がわかるのかといえば、以上述べたことによってなのである、ということ。


明治書院 老子より

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